聖書は「性」をどう語るのか 『生と性』さわりよみ

『生と性』創世記1-3章にみる「男と女」

 キリスト教会は一般的に、結婚前の性において純潔や貞操を重要視していますが、その根拠となるはずの聖書に明白な言及がないのはなぜなのかと不思議に思われるかもしれません。答えのひとつとして、当時の神の民にとって性に関する結婚前の貞操は、明白に語る必要がなかったほど当然であり大前提だった、ということが考えられます。実際、ほんの数年前まではことさらに「聖書のここにこう書いてあるから、結婚前の性的関係は禁じられている」と言うことも、質問されることも、ほとんどなかったように思います。それほど当然のこととされていたのではないでしょうか。

 聖書を全体的に見渡してみても、「結婚前に性的な関係をもってはいけない」という直接的な表現は、かぎりなくないといえます。しかし、直接的な表現で明確に言われていないからしてもよいという結論は導き出せません。なぜならそれは、「山上の説教」でイエス・キリストがお語りになったことと正反対だからです。

「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです(マタイ五・二七―二八)。

 ここでは、十戒が直接的な表現で明確に触れていないことにまで戒めの適用範囲を押し広げ、本来の意味を明らかにしています。この戒めは行為としての姦淫のみならず、「心の中で」のみだらな欲望にまで適用されるということです。「姦淫」があらゆる「性的逸脱」を直接に意味していないからといって、婚前交渉などほかのさまざまな性的逸脱をとがめていないということにはなりません。なぜなら、ことばの直接的な意味をはるかに超えて、行為に至っていない「心の中で犯す姦淫」さえも問題にされているからです。

 さらに、たとえ「結婚前に性的な関係をもってはいけない」と直接的な表現がなくても、「結婚前に性的な関係をもってかまわない」と許容したり、奨励したりすることばがないのはもっと確実で明らかです。むしろ聖書には、結婚関係での性的交わりは創造の秩序の中で定められた祝福であり、その秩序を侵さず、性的なきよさを守るように命じる教えが多くあります。ですから、結婚前にはそこに踏み入らないように心に決め、誘惑から守られるように祈り求めていくべきなのです。

(八十~八二頁より)