自然エネルギーが地球を救う 第2回 原発再稼働は必要か

牛山 泉
足利工業大学学長

世界十二億のカトリック信者を束ねるフランシスコ教皇は、弱者に寄り添う「民衆の教皇」と呼ばれ、二〇一五年九月のプロテスタントの国である米国訪問(二〇一五年九月)でも熱狂的な歓迎を受けた。キューバと米国の歴史的な国交回復の仲介をし、信仰のみならず、難民や移民の問題、軍備や核廃絶など社会問題についても前向きなことばで語っている。
二〇一五年三月には、バチカンを公式訪問した日本司教団と会見し、東日本大震災の福島第一原発事故に関連し、人間のおごりと現代文明のひずみの一例として原発の開発に警鐘を鳴らした。教皇が原発の安全性に言及するのは異例のことである。教皇は原発を旧約聖書の「バベルの塔」になぞらえて「天に届く塔を造ろうとして、自らの破滅を招こうとしている」と表現し、「人間が主人公になって自然を破壊した結果の一つ」と述べている。また文明を破壊する最たるものとして兵器の製造・輸出を挙げ、「そこが他者の血にまみれた莫大な富を得ているのが大きな問題だ」とも述べている。
ドイツは二〇一一年の福島第一原発の事故をきっかけに、二〇二二年までの脱原発を決定した。その決定に大きな影響を及ぼしたのが、メルケル首相が設置した倫理委員会である。政策決定になぜ倫理委員会が必要だったのか。委員会の十七人のメンバーには、原子力の専門家はおらず、社会学者、哲学者、宗教者、政治学者、企業人などさまざまな分野の人で構成された。議員はいたが、緑の党や環境保護団体の関係者はおらず、極端な賛成や反対派を排除した顔ぶれであった。
倫理委員会は福島原発事故直後に召集され、活動期間は二〇一一年四月四日から五月二十八日と二か月足らず。その間、ドイツのエネルギーの将来展望をはじめ、エネルギーシフトや、核拡散や放射性廃棄物の処分など、将来の社会のありかた全般について考えた提言がまとめられている。原発のリスクの責任を考えたとき、原子力事故は最悪の場合どんな結果になるかは未知であり、「損害が発生する可能性を排除するためには原子力技術をもはや使用すべきではない」という結論が導かれた。現世代の豊かさを享受するために「子孫に負の遺産を残さない」という「世代間衡平の倫理的問題」を最大の理由として脱原発を提言し、これを首相と議会が受け入れたのである。
一方、日本の場合には原発再稼働ありきで「技術安全委員会」において、原発の専門家が安全基準を検討しているのみである。これまであったものを守ろうとするのは、将来モデルではない。リスクのもっと小さな代替手段がある以上、脱原発は可能である。これは社会全体が考えるべきことで、一部の技術者や政治家が決めるべきことではない。
ゲーテの『ファウスト』の中で、ファウストが現世の快楽を得るために悪魔に魂を売ったことになぞらえるならば、いま原子力を再稼働することは、人類が悪魔に魂を売ることと同じである。放射性廃棄物は人類の歴史を超えて十万年という超長期にわたって管理する必要があり、私たちの一時の便利さの追求が、子孫に取り返しのつかないつけを残すことになるからである。しかし原発を推進する人たちは、放射能については技術の発展によって将来的に解決できると楽観視しているものの、何ら具体的な展望は持っていない。また、福島原発の事故においても、「安全神話による自縄自縛状態」が三十年も続いたことから、日本の原子力の安全維持体制は完全に無責任状態に陥り、すべては「想定外」ということばで責任を取ろうとせず、国民の大きな反発を招く結果となった。このままなし崩し的に再稼働をすると、また同じことの繰り返しになることは明らかである。国家戦略は、四十年以上たってもいまだに確立されない核燃料サイクルのように「こうあってほしい」という希望的観測や、「こうなるはずだ」という主観的願望に立脚した政策的判断で決めて、国民に、いや人類に不幸をもたらしてはならないのである。
預言者アモスは「神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう」(アモス3・8)と言っている。エゼキエルは、神から警告を与えられてもそれを人々に言わないままでもし人が死んだら「その血の責任はその者の頭上に帰する」(エゼキエル33・4)と神が言われたと述べている。神学者栗林輝夫によれば、教会はこの世における見張り役を委ねられている。もし教会がこの役割を果たさずに、世間の人々に語らなかったならば、その責任を問われるのは、原発推進側の役人や御用学者、企業人以上に、見張り役を果たさない私たちなのである。主は「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Ⅱテモテ4・2)と言われている。