遺されたメッセージ
遠藤嘉信師を偲んで みことばとともに

鞭木由行
日本福音キリスト教会連合 生田丘の上キリスト教会牧師

 遠藤先生との最初の出会いは、遠藤先生が英国から帰国して間もなくのときでした。ご家族で私たちの教会を訪ねてくださったときのことを、つい先日のことのように思い起こします。それまでも手紙による交わりがありましたが、顔を合わせたことはありませんでした。

 遠藤先生は、聖書宣教会の後輩にあたります。卒業後の留学や進路について、私は手紙で相談を受けていましたが、遠藤先生が米国のゴードン・コンウェル神学校に入学したとき、私は、すでに米国での学びを終えて英国にいました。遠藤先生が英国に渡ったとき、私たちはすでに帰国し、日本での牧会に戻っていました。やがて遠藤先生も研究を終えて帰国されたとき、私たちは初めて会うことになったのです。そのとき「いつも先生(私)の後を追いかけているようでした」とは、遠藤先生の漏らした感想です。

 私たちはその後の研究と奉仕においても、多くのことを共有してきました。しかし、帰国後は、遠藤先生は常に私より一歩先を行ったように思います。聖書宣教会で教え始めたのも、彼が先でした。そして、ついに主のみもとに行くことについても、彼が先になりました。

 昨年、私は、牧会する生田丘の上教会から一年間の長期研究休暇を与えられ、英国のリバプールに滞在していました。出発前に検査を受けていることは聞いていましたが、正式な診断がおり、余命三年から五年というショッキングなニュースを知らされたのは、昨年四月二十八日付のメールでした。

 病いは容赦なく進行して行きましたが、それでも、遠藤先生がまだ説教の奉仕を続けていたころ、「よかったら、英国に来ませんか。歓迎します」と誘ったことがありました。しかし、先生の返事には「今後は、もっと主との交わりを深めたい」と書かれてあったのです。すでに先生の心は、まっすぐに天に向けられていることを知りました。

 一年後、私は帰国しましが、遠藤先生にお会いすることができたのは四月十八日です。そして、それが最後のときとなりました。すでに左の人差し指以外は、自分で筋肉を動かすこともできませんでした。

 その日、葬儀の説教を依頼され、同時に「遠藤が伝えたかったことを語ってほしい」と頼まれたのです。何も言わずとも何が言いたいのかお互いによく分かっていました。遠藤先生が、言い残したかったことは、みことばを語ることの緊急性、重要性です。

 それは、パウロが最期を目前にして遺言のようにテモテに訴えていることです。「みことばを宣べ伝えなさい。時がよくても悪くてもしっかりやりなさい。」(Ⅱテモテ四章)それは「人々が健全な教え」に耳を傾けず「自分につごうの良いこと」を言ってもらうような時代になるからです。当時の教会の中に、すでにみことばを語ることについての危機的な状況があったことが分かります。説教者もみことばに真剣に取り組むよりは、会衆につごうの良い話に流されていたようです。遠藤先生は、みことばを忠実に語る必要を訴えただけでなく、自ら真摯にみことばの忠実な釈義と説教に取り組みました。

 彼が真にみことばの説教を求めたのは説教者としてだけではありませんでした。彼は同時にみことばに聞く良い聴衆のひとりでした。いよいよ最期が迫ったころ、彼は、主日礼拝が何とかできないかと模索し、五月十三日から聖書宣教会や近隣の先生の応援を得て、ホスピスで夕拝を始めました。みことばに聞き入り、語られるみことばの説教に涙を流して聞き入りました。彼の生涯はみことばにすっかり取り込まれていました。

 最後の訪問のとき、少し笑顔を見せながら「先にロイドジョーンズに会いに行くよ」と冗談っぽく言った一言が、忘れられません。彼が願ったすべてを要約しているようでした。彼の跡を継ぐ器が起こされることを祈らずにいられません。