靖国参拝違憲訴訟と私たちの課題

西川重則
ジャーナリスト

西川重則 六月二十三日、小泉首相の参拝に対する初めての判決が最高裁において言い渡された。その直後の六月二十八日、小泉首相、石原都知事の参拝に対しての判決が東京高裁で、説明もなく「本件控訴を棄却する」と前回と同様に言い渡された。

 どちらもあいまいな判断であり、政教分離違反という明確な憲法判断を回避した内容である。支援者であり、在韓の原告と同じ戦没者遺族として、何が問題かについて分かち合えればと筆をとった。

 裁判所は、原告側の「宗教的人格権、戦没者の回顧と祭祀の自由の侵害」もなく、「平和への思いを巡らす自由の侵害」もなく、「名誉権の侵害」もない、……と判断することによって、司法に与えられた固有の権限を一切行使することなく、憲法判断の必要はないというのだ。

 なぜそうなのか。そもそも原告について、どれだけ真剣に考えたのだろうか。宗教的人格権という言葉は使われているが、在韓の原告に対する民族的人格権という言葉は見られない。原告の訴えの思いを理解することもなく、淡々と判断するだけに留まっている文言であり、在韓をはじめとする原告の痛みも苦しみも憤りも素通りのまま、判決を認めたとしか思えない。

 「義父が広島・呉で軍属に徴用されパラオに。一九四四年、ぺリリュー島で戦死。戦後生還を信じて待ちつづけた義母の依頼で、『韓国・遺族会』の活動に関わり、遺族たちの問題解決のために専心してきた。義父の靖国神社合祀を確認ずみ」(梁順任さん)。

 「父は面(村)事務所勤務のところ志願兵制が施行され、割当人数を満たすため自らやむなく『志願』し東部ニューギニアで戦死。戦後、若かった母は再婚したため、父の顔も知らないまま親戚の家を転々、つらい少女期を過ごす。『韓国・遺族会』会員になり、父の遺骨返還、ニューギニアへ赴いての現地追悼を強く要求している」(金正任さん)。

 私は、原告の方々のプロフィールを何度も読みながら、改めて在韓の原告の方々の肉親の死の悲惨さを思い、涙した。梁さんの義父は日本の敗戦の前の年、一九四四年にぺリリュー島で戦死している。ぺリリュー島がどこにあるのか、多くの地図には書かれていない。

 パラオ諸島のところに小さく書かれていたが、ほとんどの書物、地図では無視されている。そんな小さな島に、なぜ梁さんの義父は行ったのか。否、なぜ強制的に死の戦場に狩り出されたのか。パラオがあるところは作戦終末点と言われ、東京を起点にそれより遠い距離は戦闘能力の限界の距離とされ、ぺリリュー島は、孤立無援のまま「玉砕」以外の道は初めからなかったのではないか。ただ天皇を守るための醜の御楯とされた「戦死」ではなかったのか。

 ちなみに、ぺリリュー島の戦闘は、一九四四年九月一七日から一一月二七日までの七三日間であり、九八〇〇人(生存者三四人)が「玉砕」した、と。当時「玉砕」とは、指揮官以下のほとんどが戦死、自決、戦傷を負うまで戦った場合のことであると言われている。

 今回の判決は、旧植民地時代の圧制の歴史を顧みず、戦争の惨禍の犠牲によって奪われた原告、原告の肉親の民族的人格権を無視した判決・判断であったことを強調し、併せて今後の課題としたいと願う。