Opus Dei オペラな日々 第5回 “聖さ”とは

稲垣俊也
オペラ歌手(二期会会員)、バプテスト連盟音楽伝道者

稲垣俊也 みなさんは「聖い音楽」と聞いて、どのような音楽を想像されるでしょうか? 清楚で美しい音楽、体裁が良く整ったきれいな音楽……。どれも間違ってはいませんが、”聖さ”にはもっと深い意味があるように思います。クリスマスの聖い夜に、ご一緒に”聖さ”について考えてみましょう。

”聖さ”とは?

 聖さは、行動として表れる外側より、行動させる動機が問題となります。それは、自分を正しく表現しようと努力する人の内面から始まります。自己否定や自己卑下として表される禁欲主義、あるいは聖書のみ言葉に言葉と行動で徹底的に従う形式主義は、”聖さ”として見ることはできません。

 聖さとは、そのような外的な適応の姿ではなく、神様からの大きな恵みにお応えする「心の態度」です。信仰を持つことは、人の目から見ればひとつの選択のように思われるかもしれませんが、実は、罪深い私たちのために神が一方的に無償でなされた愛の業です。信仰とは神の愛に捕らえられ、降伏させられ、快い愛に拘束させられるものです。それゆえに神の恵みである救いを「喜んで受け取る」のは、外に表す「行い」というより、「反応」ということになります。

九割の反応

 心理学者においては、人の全行動の一割は「事実を認識」する時間、残りの九割は、その「事実」に対し「反応」する時間であるといわれています。

 賛美歌を歌うなどの演奏行為には、楽譜という「事実を認識」することと、楽譜に記されていることへ「反応する」ことという二つの要素があります。「反応する」ことが行動の九割にも及ぶということを顧みると、楽譜を正確無比に描写することよりも、楽譜から提供されたモチーフに自分がどのような印象を持ち、それを味わっているのかなど、豊かに「反応する」ことが、実は自然の摂理にかなっているといえましょう。

反応は事実を変える

 「反応」の大切さは音楽においてのみではありません。私たちの信仰生活にも、大きな役割を果たします。

 たとえば自分にとって好ましくない「事実」があったとします。問題になるのはその後の「反応」です。それが否定的になってしまうと、自分の人格全体が否定的な傾向に陥ってしまいます。ですから、私たちにとって大切なことは「事実」ではなく、「いかに反応すべきか」なのです。

 ある意味で信仰は、大きな困難や否定的な出来事を、「反応」で変えてしまうものではないかと思います。過去の「事実」そのものは変えることができなくても、その「事実」が現在にどのような意味があるのかを変えることができるのです。

 その良い例が、イエスを裏切ったペテロです。ペテロはイエスを裏切った事実を変えることはできませんでしたが、裏切りを深く顧み、思い起こすごとにイエスとより深く交わるように導かれました。ペテロの心の「反応」によって、この忌むべき裏切り行為が彼の人生のなかで最も大きな意味を持つようになりました。ペテロは言うまでもなく私たちキリスト者のさきがけですが、彼を聖い人として立たしめたのは、彼自身の信仰の「反応」にほかなりません。

 賛美歌も、「事実」ばかりにこだわらないで、「反応」で「事実の意味」を逆転させる”恵みの人”になれるよう、その「反応」を音楽の豊かさの中で快くうながしてくれます。

聖い音楽

 同じように、イエスご自身も「事実」に制限されることなく、かえって「事実」を生かす術をお示しくださいました。あえてイエス・キリストは肉体をお持ちになり、私たちと同じように弱さと限界を体験なさいました。究極の限界である「死」の事実からは救われませんでしたが、「死」を通して永遠に在る方となられました。そして私たちすべての命の源となってくださっています。

 賛美歌はしばしば、死や孤独、弱さや限界といった内容をも歌っています。これらのことを避けて通るのではなく、イエスにならって詠うのであれば、これらは取り除かれるのではなく変えられていくのです。

 イエスがお生まれになった聖い夜に歌う聖い賛美歌……それは自分がいのちの源であるイエスにつながることを祝い喜ぶ歌なのです。