Opus Dei オペラな日々 第7回 キリストが魅せられて

稲垣俊也
オペラ歌手(二期会会員)、バプテスト連盟音楽伝道者

稲垣俊也 私はオペラ歌手として多くのファンからご支援を頂戴しています。ファンがおられるからこそ、私は演奏家であり続けることができます。

ファンの心理

 一般的にファンは、歌手なり俳優なりの美点、長所よりも“くせ”を好むといわれています。「あんなに活躍している彼らも私たちと同じなんだ……」とばかりに“くせ”、すなわち不都合や不具合があることに、あえて共感と安心を得て、それらを真似たり、追っかけたくなるということです。

 イエス・キリストは、一途で堅固な信仰を示した“百人隊長”に感嘆なさいましたが、イタリア語の聖書ではこの箇所が「Ges・ne fu ammirato=イエスはこれを聞いて驚かれた」と表現されています。この「ammirato」は“驚く”という意味のほかに“ほれぼれと見とれる”という意味もあります。神様と人の関係は、一途にわき目もふれず蕫見とれあう﨟関係であることがこの表現からわかります。

 「ammirato」の派生語として「ammiratore」という言葉がありますが、これはなんと“ファン”という意味です。

 イエスは百人隊長に「ammirato」なさいましたが、イエスは百人隊長に魅せられファンになってしまわれたと言い換えても差し支えないと思います。信じがたいことかもしれませんが、イエスは百人隊長だけでなく私たちのファンになってくださっているのです。

 イエスは、ファンの心理のように、私のくせ、すなわちまだまとまりを得ていない不都合なところにお心をとどめてくださっています。私のくせを殺して消滅させてしまうのではなく、そんな欠点をも含めた私を、より良く生かし、まとまりを与えてあげたいという熱心で一途な思いが「Ges・ne fu ammirato」にこめられているように思います。

弱さの中にみる蕫生命﨟へのあこがれ

 キリストはすばらしいリーダーでありながら、人々がキリストを求め惹かれていくよりも、キリストのほうが人間ひとりひとりのよさに惹かれ、求めておられる様子がいつも聖書に描かれています。取税人ザアカイ、マグダラのマリア、そしてペテロ、彼らは皆、弱さを持っていました。

 たしかに弱さは、人を消極的、否定的な方向へと追いやりますが、本当はより良く生きたいという思いの表れなのです。自分の感情や思いが、自分の中で統合されず正しい形で生かされていないとき、「弱さ」として出てしまいます。「怒り」や「悲しみ」、「欠点」や「失敗」という形で出てくるのです。しかしこれらは、自分の中でもっと生かし、成長させたい領域を示しているともいえます。

 人の心の奥にひそむ蕫生命﨟へのあこがれを見いだし、それに惹かれていくキリストの心の温かみが、聖書の「みことば」なのです。

 教会に行かない人も、教会に通ってはいても自分はたいした信者ではないと思っている人も、無意識のうちに深いものに触れたい、深く生かされたいと欲しています。みなそのような種を心の中に持っています。

 キリストはよく種の話をしますが、キリストみずからが人の中の可能性を発芽させ、生かしたいという思いがこめられているように思います。

 ストラディバリウスの名器も、楽器だけでは存在価値がありません。優秀な奏者を得てはじめて楽器のすばらしさがわかるのです。自分の中に隠されている可能性と宝を生かし、味わい、人々と分かち合う体験は、楽器と奏者の関係のように、私と神様との協力の関係の中でなされていくものです。

キリストが私に魅せられて

 稲垣さんはなぜクリスチャンなのですか? キリストの何に惹かれるのですか? よくそのようなご質問を受けますが、最近では臆せずこのように応えています。

 「私がキリストに惹かれるのは、キリストが私に惹かれているということです。キリストが惹かれるぐらい、私は魅力的な人間です。」たいへんおそれ多い言葉のように思えますが、このように言えるようになったとき初めて、キリストの心を理解することができるのではないでしょうか。

 私はまだ完成していないメロディーであり、詩です。新しいメロディーを、新しい詩を、そして新しい歌を、キリストと共に書きつづらせていただけることを楽しみたいと思っています。