ふり返る祈り 第8回 こころの貧しさ

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
マタイの福音書5篇3節
斉藤 善樹(さいとう・よしき)
自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。

最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授、同学院教会、下山口キリスト教会牧師。

イエス様、私の心は貧しいのです。すぐに嫉妬し、怒りやすく、ひがみ、傲慢になったかと思うと劣等感に悩まされるのです。豊かな心の持ち主になりたいです。寛容な心を持ち、いつも感謝と喜びの心を持っていたいのです。けれども、あなたは心の貧しい人が幸いなのだとおっしゃいました。あなたの力が私とともにあるからです。あなたの恵みが私の貧しさに働きかけるからです。できるだけ心豊かに生きようと思います。けれども主よ、どうしようもない私の貧しさの中であなたの豊かさを経験させてください。

誰もが、「心は豊かなのがいいのに決まっている」と言うでしょう。いつも平安でいて、少しのことでは慌てず、何事も恐れず、人を偏り見ず、忍耐と寛容をもって、言うべきことははっきり言える、そしていつも感謝と喜びに満ちている、そんな心がいいのに決まっています。
けれどもしばしば、あなたは自分の心が豊かでないことを感じます。すぐに不安と恐れに襲われ、少しのことにイライラし、怒りやすく、物事を偏り見ているのです。そして何かに依存し、そこから離れられなくなってしまいます。人からしばしば誤解され、あなたは孤独になってしまいます。そのことで人を恨みます。あなたの心は貧しいのです。

私たちの心の悩みのすべては私たちの心の貧しさからきています。けれども、主イエスはそんなあなたに、心の豊かさを求めなさいとは言われません。あなたの心の貧しさゆえにあなたは幸いなのだと言われるのです。「さいわい」とは神の力があなたに臨むということです。神の力があなたとともにあるということです。心の貧しさを知っているあなたは必死に神に求めるでしょう。貧しい心は私たちを苦しめるからです。
ところで、どのようなときにあなたは心の貧しさを感じるのでしょうか。朝起きた時から、心の貧しさを感じるという人がいらっしゃるかもしれません。新しい朝の喜びどころか、今日の一日のプレッシャーで胸が押しつぶされそうになり、暗い気持ちに覆われて元気に「おはよう!」なんて誰にも言えない気持ちです。あるいは、あなたは人と比べてすぐに自信をなくす人かもしれません。人が皆自分より優れて見えます。また人の境遇のほうが自分より恵まれているように見えます。あなたが苦しいばかりに人のことを羨みます。そんな自分が情けなく思います。心の狭い自分を感じます。あなたは人に受け入れられないでひがんでいるかもしれません。そんなことはないと自分に言い聞かせても、自分はいつも孤立しているように感じます。あなたは人のちょっとした言葉で大きく傷ついてしまいます。人のよいところなどに目がいかず、人の悪いところばかりが目について悲しくなります。神様があなたのことをどう思っておられるかよりも、人があなたのことをどう思っているかが気になってしまいます。
あなたは人の話を忍耐をもって聴くことができません。身内の言うことは特にだめです。あなたはいつも焦っています。いつも何かをしていないと不安です。自分の生活にぽっかり開いた穴をいろいろなもので埋めようとします。でも空しさは解消されません。

こんな私がどうして幸いになるのでしょう。これらがすべて解決されてから自分は幸いになるのではないでしょうか。いいえ、そんな貧しさを感じるあなたは幸いなのだとイエスはおっしゃいます。貧しさを感じるときにこそ、神様の力は私たちに働くからです。自分のどうにもならない貧しさを神様に訴えて、神様にすがることこそ幸いなのです。貧しさの中で神様にすがろうとするときほど、神様が間近になることはありません。
神様は人間にとって「あなた」という第二人称でお呼びする方になるのです。私たちは貧しくても神は豊かです。神の豊かさは私たちが貧しいときにこそ経験するのです。心が真に豊かであるということは、貧しさがないということではなく、神の豊かさを経験することです。私たちの生来の豊かさがあるとしても、それは束の間の豊かさです。人によって多少の違いはあったとしても、それはもろいものです。私たちの持っている豊かさなど地面が少し揺れるだけで、多少の持ち物を失うだけで消し飛んでしまうものです。それほど私たちの持っている豊かさは危ういものです。天国の経験は生来のちっぽけな豊かさの経験ではなく、神の豊かさの経験なのです。