たましいの事件記者フィリップ・ヤンシ―その探究の軌跡 (5)『祈り―どんな意味があるのか

山下章子
フィリップ・ヤンシーの代表作として、今回は『祈り―どんな意味があるのか』をご紹介します。祈りが日々の生活に欠かすことのできない重要なものであることを疑うクリスチャンはいないでしょう。けれど信仰者たちの実際の祈りの生活はどうなのか。著者は、祈りを重要だと思いながらも不満や疑問を拭えずにいる人の多いことを知って、本書の執筆に取りかかりました。五百ページを超える厚さの本ですが、「祈りが退屈なあなたへ」「祈りに失望しているあなたへ」「祈る意味が見いだせないあなたへ」「祈る資格がないと思っているあなたへ」―こんな副題をつけてもおかしくないほどですから敬遠するには及びません。丁寧に答えを探る中で、キリスト教の神の真実が見えてくる場面に立ち会えば、ふつうの人々の疑問を大切にする価値が分かるというものです。

最初の約百ページに、祈りについて著者が持つに至った確信、著者の考える祈りの重要な要素が綴られていて、それまでの作品と少し趣を異にしています。ヤンシー氏の人生は物心ついてから祈りとともにありましたが、罪意識、劣等感、懐疑主義などから祈りに失望していた時期もあり、一般の信仰者が密かに持っている疑問は、いずれも彼の知らないものではありません。神は聞いておられるのか、神がすべてをご存知だというなら、なぜあえて祈る必要があるのか、聞かれる祈りに一貫性がないのはなぜか、神を近くに感じることもあれば遠く感じることもあるのはなぜか……。コロラドでの山登りから気づいたこと、夫婦関係や友人関係から類推したこと、同僚から教わったこと、尊敬する人々から知らされたこと、聖書の言葉、神学者や文学者たちの指摘などから、疑問が広やかな視点に導かれ、新しい見方を獲得していきます。

その後の四百ページ余りで祈りにまつわる問題がさらに細かく取り上げられ、同様の手法で深い思索が展開します。答えられないこともあるのに、なぜ祈るのか。神がこの世に散発的にしか介入しないのはなぜか、祈りがもたらす違いとは何か、祈ろうとしても言葉が出てこないときはどうすればいいのか、どんなことを祈ればいいのか等、多くの疑問が提示されます。中でも聞かれない祈りは深刻な問題を孕んでいるとして、特に深く追究されます。大きな不幸に見舞われて必死に祈ったのに望んでいた答えが与えられない場合、神に失望したり罪意識に囚われたりして、人は信仰の危機に瀕することがままあるからです。

著者はときにユニークな着眼点をもって問題に切り込みます。神はどのような働き方を「しないか」、イエスや殉教者たちはそれぞれどのような祈りを祈ったか、また「祈らなかった」のかを調べる。「祈らなかったのに与えられた答え」や「聞かれない祈りという祝福」もあると指摘する。神の臨在がないことを嘆く私たちのほうは、自分たちの臨在を神に感じさせているのか、と問いかける、というように。世界に取材するジャーナリストの経験も、多くの奉仕者たちの原点が信仰とりわけ祈りの危機にあったという事実の掘り起しなどに生かされています。何を祈るかより、だれに祈るかを重視する姿勢は、祈りをテクニックの問題にすり替える危険を遠ざけ、私たちの祈りの対象である神のご性質を明らかにしていきます。聖書に照らして、キェルケゴールの「祈りは神を変えるのでなく、人を変える」という言葉や有名な「平静の祈り」に反論するくだりなど、神と人との関係が熱いものであり得ることも知らせています。読者からの手紙があちこちに差し挟まれているのは、この探究がその人たちに答えを提供できるものでありたいという著者の思いの反映です。

多くの人々の言葉、歴史上の出来事や昨今のニュース、自身の経験などを手掛かりに疑問の答えを聖書に探る書ではありますが、最も強く印象に残るのは、著者によって語られる言葉の美しさです。みことば、いろいろな人の言葉、そして思索の果てに著者の紡ぎだす言葉。一つ一つが心に響く輝きを放ち、まるで幾重もの糸がより合わされて美しい生地が織られてゆく様を見るようです。特に著者の信仰のエッセンスともいえる第一部には、何度でも読み返したくなる文学作品のような魅力があります。人の思いが神の思いと出会い、美しい一本の糸となってこの世界を包む。イエス・キリストを通し、愛そのものである神に祈ることができるクリスチャンには、素晴らしい特権と役割が与えられている。そんなことに気づかせてくれる作品です。