恵み・支えの双方向性 第24回擬人法を用いた表現

淀川キリスト教病院 理事長
柏木哲夫

ある医学関係の学会シンポジウムで興味ある発表を聞きました。何かに挑戦するときに、挑戦者は自分がしようとしているそのことで犠牲になる人はいないかどうかに注意する視点を持つ必要があるという主旨でした。発表者はとてもユニークなたとえ話をしました。「階段を一段とばしで、二段ずつ上がることに挑戦している人は、とばされた階段が、僕も踏んでほしかった、と思っているかもしれないという視点を持つ必要がある」というのです。実は私自身が現在、エレベーターやエスカレーターを使わずに階段を二段ずつ上がることに挑戦していますが、とばした階段が「僕も踏んでほしかった」と思っているかもしれないなどという視点は全然持っていませんでした。
この発表を聞いて、私は二つのことを思いました。一つは、何かに挑戦するときに、その挑戦の結果に浴することができない人が必ず存在することを、挑戦者は謙虚に認める必要があるということです。たとえば、がんの陽子線治療に挑戦している人は、多額の費用がかかるため、その恩恵に浴せない人の存在に目を注ぐ必要があるでしょう。
もう一つは、挑戦したくてもできない人の存在に配慮するということです。足腰の弱りのために階段を二段ずつ上がることなど到底考えられない人(特に同年の人)の前で、自慢たらしく自分の挑戦を吹聴するようなことをしてはならないことでしょう。
いずれにしても、とばされた階段が「自分も踏んでほしかった」と思っているかもしれないという発表者の視点と発表者の感性には感動しました。この発表を聞いてから、私は病院の階段を二段ずつ上がるときに、日によって初めに踏む階段を変えるようにしています。
話は少し飛躍しますが、前述の挑戦の話では、擬人法が使われています。踏んでもらえなかった階段が「僕も踏んでほしかった」と擬人化されて用いられています。擬人法とは、人でないものを人に見立てた表現のことです。たとえば、鳥が歌う、風がささやく、などです。この擬人法は大切な概念や考え方を伝えるのによく用いられます。ある学会で聞いた「アイヌの文化」についての講演でもこの擬人法がうまく用いられていました。子どものしつけに関するアイヌ独特の方法です。
子どもが柱に頭をぶつけて大声で泣き叫んでいるとき、母親はその子に駆け寄って、頭をさすりながら「痛かったね、かわいそうに」と言います。そして、すぐに柱に駆け寄って、柱をさすりながら、「柱さんも痛かったね、ぶつかってごめんね」と言うそうです。ここでははっきりと柱を擬人化しています。人が黙って立っているときに、子どもが走ってきてぶつかれば痛いに決まっています。柱を擬人化することによって、子どもに他の人の痛みも教えるという素晴らしい方法だと思いました。
擬人法は川柳の世界にも生きています。私は数年前から川柳に興味を持ち出し、ときどき新聞の川柳欄に投稿します。私が投稿した句の一つを紹介します。「食卓の愚痴を聴いてるパンの耳」。擬人法の面白さを活かしたかなりの自信作で、川柳欄に投句しました。当選句として載るのではないかとかなり期待したのですが、選者との意見が合わなくて、ボツになりました。
擬人法の川柳を三つ紹介します。残念ながら私の句ではありませんが。

和菓子君過保護なおべべ着せられて
乾電池肩寄せ合って寿命尽き
広告を着ているようなバスが来る

擬人法を用いた文章や話はどのような効用があるのでしょうか。それのいくつかを挙げてみます。
文章や話が生き生きとしてくる―「広告を着ているバス」と言うのはとてもユニークな生き生きとした表現ですね。
発想の転換を働きかける―子どもがぶつかった柱に親が謝るというのは典型的な発想の転換です。
理解しやすくなる―とばされた階段が「僕も踏んでほしかった」と表現することにより、恩恵に浴せなかった人の気持ちが理解しやすくなります。
平板ではない表現になる―乾電池が肩を寄せ合うというのは平板な表現ではありません。
親近感をもって読んでもらえる―「過保護なおべべ」などの表現は人々に親近感を覚えさせると思います。
いずれにしても擬人法を用いることによって、物事の本質が伝わりやすくなると思います。