たましいの事件記者フィリップ・ヤンシー ―その探究の軌跡 最終回『神を信じて何になるのか』

山下章子

この世に生きる人々の心に生じる思いと、キリスト教の神の思い。フィリップ・ヤンシーはその両方に取材して執筆活動をしてきた作家ですが、今回は少し毛色の変わった作品をご紹介します。『神を信じて何になるのか』――この不躾なタイトルの本が日本で刊行されたのは、奇しくも東日本大震災の発生直後でした。目に見えず沈黙しているかに見える神は、どのような方なのか。人によって捉え方の異なるイエスの真の姿とは、どのようなものなのか。教会の存在意義はどこにあるのか。祈りは単なる独白ではないのか。さまざまな疑問をテーマに聖書を研究してきた著者が、本書では作品に綴ってきた自身の考えの真偽を検証すべく書斎を飛び出し、米国も含め世界のあちこちを訪ねています。要請に応じて向かった所もあれば出版社主催のツアーで赴いた所もありますが、行く先々で講演が行われました。事実の伝達を身上とするのがジャーナリスト、各地で人々の置かれている状況を伝えたうえで、講演内容を話し言葉のまま文章に起こしています。著者の言葉を借りると、「今日のニュース」を踏まえて「永遠のニュース」を語る構成です。
銃乱射事件の傷の癒えぬ学生たち、会場を埋め尽くした元売春婦たち、社会の変革を担いつつある南アフリカのクリスチャン、空前のリバイバルが起きている中国に進出した実業家たち、危険を冒してキリスト教を信仰する中東の人々など聴衆は多様です。人生から苦痛や挑戦を受けている人々、利潤追求に明け暮れる人々の両方を目にしながら、著者はそこに通底する疑問「神を信じて何になるのか」を見出しタイトルにしました。キリスト教信仰が与えてくれるものとは何なのか。
悲しみや不安に沈む人々、人権を蔑ろにされている人々、弱さを抱えている人々、対立のある地域に生きる人々。そのような人々のいる所にはキリストの働きを担っている人々もいて、神は福音を必要としている所へ文字どおり「動いて」おられ、信仰者を通して神秘的な仕方で働いておられることを知らされます。切実な思いで福音にしがみついている人たちについて書かれたくだりでは、自由な世界に生きる私たちはキリスト教のもたらした恩恵にあぐらをかいていないかと自省も促されます。
講演録は著者の神学を分かり易いものにしていますが、純粋であっても単純ではなく、確信を得ていても性急な押し付けをしない知性と慎み深さが伝わってきます。困難のなかにいる人々に語りかける心を打つ講演もあれば、子どものような信仰にありがちな不健康な特徴を指摘するなど、信仰について考えさせられる講演もあります。また、母校で在校生に贈った温かい助言、ポール・ブランド博士やC・S・ルイスの話、少年時代を過ごした六〇年代米国南部の様相、依存症患者の集まるシカゴの教会でのエピソードなど、ヤンシー氏の半生や信仰の歩みが窺い知れるのもファンには嬉しいところです。
前回取り上げた『祈り―どんな意味があるのか』の中に、「歴史とは、力を放棄する神の物語である」という著者自身の言葉があります(一五八頁)。本書はその言葉を裏書きするものであり、生きた信仰の力を地球規模で見渡したルポルタージュと言えます。
六回にわたりヤンシー氏の探究の道筋をたどれるような作品を紹介してまいりましたが、もうひとつ触れておきたい作品があります。一九九六年に改題発行(原書は一九七七年発行)された『痛むキリスト者とともに』(村瀬俊夫訳)という、心身の苦痛と信仰の危機について書かれた本です。人々が神に対して抱くさまざまな疑念も多くは痛みの問題に集約されるという意味で、この本は時代を経ても色あせない深い内容をたたえています。著者に決定的な影響を与えたブランド博士が痛みを神に感謝する理由、痛みの問題を探ることで見えてくるキリスト教の宇宙観、神がヨブに求めたもの、苦しみを通して神に近づく人と離れる人の分岐点、イエスの十字架の持つ意味など、理不尽な思いに苦しむ人に新しい視点を提供してくれることでしょう。洗練された訳文は優しく語りかける「です・ます」調、言葉を心に落とし込むように読むのがふさわしい優れた内容の一冊です。

連載も最後になりました。今日まで読んでくださった皆様に心から感謝申し上げます。事実を伝え、その背後にあるものを探り、権力を監視するジャーナリストほど、先生という呼称が似つかわしくない職業もないと認識した半年間でもありました。いつの日か読者の皆様によるヤンシー論を読みたいと希望しつつ、ペンを置かせていただきます。