ふり返る祈り 第10回 みこころに添った怒りと悲しみ

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
コリント人への手紙第二7章10節

斉藤 善樹(さいとう・よしき)
自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授、同学院教会、下山口キリスト教会牧師。

神様、私たちは怒るべきところで怒らず、怒る必要のないところで怒るのです。また悲しむべきものを悲しまず、悲しまなくてよいものを悲しむのです。私たちの怒りや悲しみの多くは自分の些細なプライドを傷つけられたこと、面目をなくしたことです。そんなときは必要以上に感情的になりますが、正義のための怒りは弱いのです。また自分の犯した罪や過ちは人に知られていなければ悲しむこともありません。どうぞ、私の思いを吟味し、自分のプライドに関しては怒ること遅く、自分の罪に関しては悲しむ者であらせてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

私たちはどんなときに怒り、どんなときに悲しむのでしょう。最近自分が怒ったときのことを思い浮かべると、自分がないがしろにされたこと、自分のプライドが傷ついたこと、気に入らないことをされたことが原因です。正しいことが曲げられたと怒っても、結局は自分の怒りのツボに触れたのです。怒っても悪くありませんが、必要以上に怒ってしまいます。一方、怒るべきなのにウヤムヤにしていることもあります。どうにもならないことだと諦めているのか、たまたま自分の怒りのツボにはまらないのか分かりませんが、社会の不正も自分の利害に直接かかわりがなければ放っておくことが多いのです。

ところで主イエスがお怒りになったときのことが聖書に記されています。幼子たちがイエスに近づこうとしているときに、弟子たちは止めようとしました。そのとき、イエスは憤ったというのです。イエスは怒りながらおっしゃいました、「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません」(マルコ10・13、14)。また体の不自由な人が会堂にいて、安息日にその人を癒すかどうかユダヤの指導者たちがイエスを監視していたとき、彼らに対して「イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら」その人を癒したのです(マルコ3・5)。どちらもイエスの利害には直接には関係ないことです。けれども社会の弱い立場にある人間が傷つけられようとしているとき、イエスは怒ったのです。逆にイエスはご自分が鞭打たれたとき、ユダに裏切られたとき、ペテロに否定されたとき、聖書はイエスが怒ったとは記していません。

どんなときに私たちは悲しむでしょう。愛する人を失うことは少なからぬ人々が経験します。自分が孤独に陥ったとき、傷つけられたとき、自分が否定されたとき、私たちは悲しみます。悲しさに正しい悲しみも間違った悲しみもありません。悲しみは悲しみです。けれども周りが見えていない悲しみというものがあります。ある親が、普段自分の子どもと関わっていないので、罪滅ぼしの意味で特別な誕生プレゼントを考えました。ところがどんなものが子どもを喜ばせるのか分かりません。自分で考えて子どもにとってよいものだと思うものを買いました。高価なものでしたし、自分で精いっぱい考えたつもりです。ところが子どもはそれを喜びませんでした。子どもの真に望んでいるものではなかったからです。否定された気持ちになった親は傷つきました。悲しかったのです。親のことを分かってくれない子どもをもって自分は不幸だと悲しみました。さて、この悲しみには自己中心的なものが入り込んでいます。もし、自分が子どものことを理解していなかったと悟って努力しようとするならば、この悲しみはこの親と子どもの関係をもっと豊かな方に導くでしょう。

人間は真に自分の罪の深さを悲しむことをしません。イエスの弟子のペテロは、愛すべき人物ですが、人の気持ちというものが分からない少し高慢なところがあったようです。イエスが十字架にかけられる前夜、イエスを知らないと三度も否定しました。それをイエスは前もって予言していました。人間は自分の罪が暴露されたときに、自分の罪を嘆くものです。露見されなければ、自分の弱さや愚かさを普段は分かっていないのです。ペテロはそれが分かったときに、悲しみが彼を襲い激しく泣きました(ルカ22・61)。
私たちは怒るべきものを怒らないで、怒らなくてよいものを怒り狂い、悲しむべきものを悲しまないで、悲しまなくてよいものを悲しんで落ち込んでいることが多いのです。自分は本当は何を怒っているのか、何を悲しんでいるのか、考えてみましょう。