恵みの軌跡 第一回 父の死・子供時代・学生時代

柏木哲夫
一九六五年、大阪大学医学部卒業。ワシントン大学に留学し、アメリカ精神医学の研修を積む。一九七二年に帰国し、淀川キリスト教病院に精神神経科を開設。翌年日本で初めてのホスピスプログラムをスタート。一九九四年日米医学功労賞、一九九八年朝日社会福祉賞、二〇〇四年保健文化賞を受賞。日本メノナイト ブレザレン石橋キリスト教会会員。

私は三歳のときに、父を亡くしました。結核でした。父は三八歳でした。六年間結核と闘い、発病後三年目で少し体調が良くなり、私が生まれました。父は郵便局に勤めていました。
母は看護師をしながら、父の看病もし、父の死後、再婚をせず、私を育ててくれました。私は親一人、子一人の家庭で育ちました。父のことはほとんど記憶にありません。結核という病気のため、子どもへの感染を恐れ、私との接触は極力避けていたようです。私は、二階にいつもだれかがいる気配を感じていたように思います。
葬儀のとき、人が多く集まったので、私が嬉しそうに部屋中を走り回ったそうです。その様子を見て、「かわいそうに、三つでは父親が死んだことは、ちゃんとわからないね。あんなにはしゃいで。不憫だね」と叔母が言った、と母から聞きました。

父のことを身近に感じたのは父の手帳を見たときでした。一〇一歳で召天した母が、一〇〇歳のときに私にくれました。私が生まれた一九三九(昭和十四)年の前の年の手帳です。日常生活でしたことをメモ程度に書いている何の変哲もないものですが、終わりのほうにたくさんの名前が書かれていました。生まれてくる子どもの名前の羅列でした。父は博、母は美智恵ですが、女の子の場合は両親から一字ずつ取って「博美」とし、男の子の場合は「哲夫」と考えていたらしく、赤丸をしてありました。父が「哲夫」にどんな思いを託したのかわかりませんが、もしそれが「哲学的な夫」であれば、父の期待に添えていないと思っています。

私は、寂しい子ども時代を過ごしました。公園で同じ年ごろの子どもが、両親に手を引かれ、ときどきつり上げてもらって嬉しそうに笑っている姿を見て、とてもうらやましく思ったことを覚えています。戦争中は母から離れて、淡路島の祖父母の家に疎開しました。戦争の意味がわからなかった私は、焼夷弾で燃えている農家を見て、怖いというより、「すごい」とか「きれい」という感じがして、それを口に出し、祖父にひどく叱られたことを覚えています。戦争が終わって、母が迎えに来たとき、「どこのおばちゃん?」と言って、母にとても悲しい思いをさせたのも、戦争の大きな副作用だと思っています。

小学生のころは、祖母(父の母親)、母、私の三人家族でした。母は当時、大阪市東淀川区東淡路にあった鐘紡病院で看護師をしていました。放課後は母の病院のグラウンドで野球をするのが楽しみでした。当時の私にとっては、病院の建物、白衣の医者、クレゾールの匂い、散歩中の患者さん、などは日常生活の一部でした。このような環境の中で「自分は医者になる」という思いが、ごく自然に私の中で芽生えていきました。よくは覚えていないのですが、五年生の時に「医者になる」とはっきり宣言(?)した、と母に聞きました。
中学生時代の三年間は大きな出来事もなく、平凡に過ぎたと思います。病院で卓球の選手をしていた母の影響で、私も卓球部に入り、仲間と遅くまで汗を流したことを懐かしく思い出します。

一つだけ、私の人生に少し影響を与えた一冊の本のことを書きたいと思います。二年生のときのある日、ふと立ち寄った図書館の書棚に衝撃的なタイトルの本がありました。『一人っ子』という題の本でした。副題に「この問題児」とありました。著者も出版社も忘れましたが、書名だけははっきりと覚えています。借り出してむさぼるように読みました。ひどい内容でした。一人っ子は非行に走りやすい、犯罪を犯しやすい、自殺しやすいなどの活字が目に飛び込んできました。これは大変と思うと同時に、しっかり勉強して、立派な医者になり、この著者を見返してやるぞ、という挑戦心が沸き起こってきました。

高校は大阪市の進学校に進みました。「見返してやるぞ勉強」のかたわら、部活動にもかなり熱心でした。将来を考えて、「生物部」に入りました。カエルの解剖を随分たくさんしました。勉強の成績はまずまずでした。模擬試験の順位も何とか国公立の医学部に入れそうでした。入学試験は国立と公立の医学部を二つ受けました。公立のほうは倍率がかなり高く、問題が難しく、出来も芳しくなく、駄目だろうと思っていたら、やはり駄目でした。国立のほうはまずまずの出来だったので、合格発表の日、自分の番号が掲示されることを、ほぼ確信していたのですが、番号はありませんでした。事務室で成績が聞けるとのことなので、聞きに行きました。「残念でしたね。漢字ひとつ、三点足りませんでした」と係員が気の毒そうに言いました。三点で浪人生活か……悔しさが込み上げてきました。

他の医学部を受験し、やはり駄目だった友人と二人で、北海道へ二週間の「やけ旅行」に出かけました。旅の途中で、皇太子が結婚され、そのパレードがテレビで放映されたことをはっきり覚えています。残念ながら、心からお祝いする気になれませんでした。
旅から帰ったとき、予備校はほとんど募集を締め切っていました。YMCAの予備校だけが五名学生を募集していることがわかり、応募しました。競争率五倍の難関でした。しばらくして合格の祝電が来ました。予備校からの祝電を受け取るのは、ちょっと複雑な気持ちです。そして、YMCA予備校で私は初めてキリスト教に触れました。キリスト教の教えをまとめたパンフレットに目を通したり、壁に貼られている教会の案内や集会にも目をやったりしました。しかし、そのときはそれ以上の関心を持つことがありませんでした。

一年間の浪人生活は別に灰色という感じではありませんでした。看護師の給料では、私立の医学部にはとうてい行けません。母は、私が医学部を目指すことには賛成でしたが、下宿をしない国公立という条件を出しました。もっともなことです。しっかり勉強して、医学部に入るという明確な目標を立てて、何も迷わず、日々を過ごした、いわば、単純明快な一年でした。一年後、公立は二年連続で駄目でしたが、感謝なことに国立の医学部に合格できました。