連載 恵みの軌跡 第四回 精神科医としてのスタート

柏木哲夫
一九六五年、大阪大学医学部卒業。ワシントン大学に留学し、アメリカ精神医学の研修を積む。一九七二年に帰国し、淀川キリスト教病院に精神神経科を開設。翌年日本で初めてのホスピスプログラムをスタート。一九九四年日米医学功労賞、一九九八年朝日社会福祉賞、二〇〇四年保健文化賞を受賞。日本メノナイト ブレザレン石橋キリスト教会会員。

医学部を出て、一年間のインターンを終えて、大学の精神神経科の医局に入りました。学生のときに精神科の講義の中で興味があったのは、心身医学でした。簡単にいうと、心の状態が体に現れるということです。
特に心因性の蕁麻疹の講義は印象的でした。心の持ち方で蕁麻疹が出る、やや過酷な実験でした。鯖で蕁麻疹が出ると訴える患者さんに、心因性の要素が強いことを知ってもらう実験です。本当にエキスが入っていない溶液を「これは、鯖のエキスが入っていない溶液です」と言って飲んでもらいます。何も起こりません。しばらくして、実験助手が「すみません。鯖のエキスが入った溶液と間違えました」と言うのです。すると、患者さんの首筋に蕁麻疹が出てきます。鯖のエキスを飲んだという心理的なことだけで、蕁麻疹が出るのです。
入局して私は「心因性の頭痛」の研究をしました。あのことが「頭痛の種」と言われるように、頭痛は心の状態と密接な関係があります。年に三か月、ご主人の母親を自宅で世話をすることを何年間か続けている中年の女性は、母親が来る少し前になると、かなり強い偏頭痛に悩まされるようになり、母親の滞在期間中続き、母親がいなくなるとすっかりよくなるというはっきりした「心因性頭痛」の患者さんでした。母親との心理的葛藤が解決し、頭痛からも解放されました。

私は、私の医師としての姿勢に大きな影響を与えた二人の患者さんに、大学病院以外の病院で出会いました。
医局のローテーションでK病院へ一年間の予定で赴任しました。病棟に四十七歳の女性患者Yさんがいました。カルテには「緘黙症」とあり、この一年間一言もしゃべらないと記載されていました。部長も私の前任者も薬を工夫したり、グループ療法、行動療法、作業療法、さらに電気ショック療法まで試みたりしましたが、効果がありませんでした。音には反応するので耳は聞こえていることが分かっていました。仮面様の顔貌をしており、いかにも感情が動かない感じがしました。私も緘黙症に関するいろんな書物や文献を調べて、効果がありそうな方法はすべて試みてみましたが、Yさんは一言もしゃべってくれませんでした。

半年経ったころ、医局にあったジャーナルを読んでいると、「Being with the patients」という記事が目に留まりました。緘黙症の患者と生活を共にすると、長くかかるが言葉が出るようになる場合がある、との報告でした。私はこの記事を部長に見せ、普段詰め所でするカルテの記載その他の仕事を、机を持ち込んで、Yさんの部屋でさせてほしいと頼みました。部長は不承不承許可してくれました。それから半年間、私は詰め所での仕事をYさんの部屋で行いました。自分の勉強や読書も、できるだけYさんの部屋でしました。Yさんは、私の存在にはほとんど無関心のようでした。私はときどき、「Yさん、何でもいいから、一言しゃべってよ」と懇願しましたが、効果はありませんでした。

一年間の勤務を終えて、荷物をまとめ、駅までタクシーで行くことにしました。玄関には部長やナース、数人の患者さんが見送りに来てくれました。「お世話になりました」と言って頭を下げ、顔を上げたとき、一番後ろにYさんがいるのが見えました。私はうれしくなって、Yさんに手を振りました。そのとき信じられないことが起こりました。Yさんが一言、「ありがとう」と言ったのです。私は自分の耳を疑いました。幻聴ではないかと思いました。しかし、その場にいた人はみな、Yさんの「ありがとう」を聞きました。私はタクシーの中で駅まで泣きじゃくり続けました。
Yさんはその後また一言もしゃべらなくなりました。そして数年後、肺炎で亡くなったと聞きました。励ましたり支えたりすることよりも、寄り添うこと、そこに存在することがケアの基本であると教えられました。

精神科の医者になって二年目の経験です。某精神科病院の外来を担当していました。二十八歳の人妻、Mさんが母親に付き添われて診察室に入ってきました。椅子に座るなり、互いに関係のない言葉を並べ始めました。「空が……、家の雲……、自動車……、あの人、赤いマフラー……」といった具合です。精神科の教科書に記載されている「サラダ語」(サラダのように、いろいろのものを器に入れたような状態)という症状で、急性の心因反応の特徴の一つとされます。夫の浮気が分かって急に精神的に不安定になった、と母親は言います。
入院の必要があることは短時間でわかりました。私はMさんの顔を見て、うなずきながら、どの病棟に入院してもらおうかと考えていました。診察を始める前に聞いていた空きベッドのある病棟と彼女の病状を考えながら、どこが適当かに思いを巡らせていたのです。すると突然Mさんが、「先生、私の言うことをしっかり聞いてください。先生はほかのことを考えているでしょう」と言ったのです。私は、まさにびっくり仰天してしまいました。わけが分からない「サラダ語」状態であった患者さんが、私の目をしっかと見つめて「私の言うことをしっかり聞いてください」と言ったのです。私はすぐに謝りました。「ごめんなさい。あなたの状態を考えると、入院が必要だと思って、どこのベッドがいいか考えていたのです」と。それには答えず、Mさんは再び「サラダ語」状態に戻りました。

患者さんは自分がどのように見られているかにとても敏感です。Mさんのように急性の心因反応の人でも、老人、子ども、認知症の人、がん末期の患者さんでも、そうです。どのように見られているかを感じ取る能力は、幼い子どもでも、認知症の老人でも、死が近い末期のがん患者でも、しっかりと持っています。この能力は、年齢や状態にかかわらず、人間に最後まで残されるもののように思えます。
私はどんな人にも、その人がどう見られているかを感じる力を持っていることをしっかりと認識して接する必要があるということを、患者さんをはじめ多くの方々から教えられました。