恵みの軌跡 第六回 ホスピスのスタート

柏木哲夫

一九六五年、大阪大学医学部卒業。ワシントン大学に留学し、アメリカ精神医学の研修を積む。一九七二年に帰国し、淀川キリスト教病院に精神神経科を開設。翌年日本で初めてのホスピスプログラムをスタート。一九九四年日米医学功労賞、一九九八年朝日社会福祉賞、二〇〇四年保健文化賞を受賞。日本メノナイト ブレザレン石橋キリスト教会会員。

一九七二年に帰国し、淀川キリスト教病院(YCH)に精神科を開設し、医長として診察を始めました。医長といっても、一人医長で、毎日外来を担当しました。
私がアメリカで末期患者へのチームアプローチを経験したことがわかり、医師、看護師、ソーシャルワーカー、チャプレン、そのほかコメディカルのスタッフ(医師と協同して医療を行う、検査技師・放射線技師・薬剤師・理学療法士・栄養士などの病院職員)が集まる勉強会で、その働きを紹介してほしいとの要請がありました。アメリカでは当時この働きはOCDP(Organized Care of Dying Patient―死にゆく患者への組織的ケア、すなわちチームアプローチ)と呼ばれていました。勉強会での私の発表は、多くのスタッフの関心を集めました。そして、チームアプローチの勉強をしたいとの希望が出ました。

一人の患者さんとの出会いが、医師の進む道を決めることがあります。Sさんは私にとって、まさにそういう患者さんでした。直腸がんの末期であるSさんは、激痛と死への不安や恐怖があり、うつ状態に陥っていました。主治医の外科医は、患者さんの精神症状のコントロールについて、精神科医である私に相談を持ちかけたのです。Sさんに会うと、彼がいかに多くの痛みを持っているかがわかりました。骨に転移したがんの痛み、不安や恐れなど精神的な痛み、家族との人間関係や経済的な問題、死後の世界に関するスピリチュアルペインなどです。
Sさんの多くの必要を満たすためには、チームアプローチが必要であると思いました。身体的痛みを取る医師、精神的な問題に対処する精神科医、十分に時間をかけて話を聴く看護師、経済的な問題にはソーシャルワーカー、スピリチュアルペインにチャプレンなどがチームを組み、協力することが不可欠であると思いました。
このことがきっかけとなり、院内に末期患者へのチームアプローチが始まりました。一九七三年の夏のことでした。私たちはこのアプローチをOCDPと呼びました。これは、日本における初めてのホスピスプログラムのスタートでした。チームは毎週集まり、一~二名の末期患者のケアについて検討会を開き、それぞれの患者が必要とするケアを提供しました。

時間の経過とともに、私は一般病棟で末期の患者さんのケアをすることのむずかしさを実感するようになりました。病棟の空気は治療一色でした。末期の患者も延命一色でした。治療と延命へのパターンがありました。貧血→輸血、肺炎→抗生剤、心停止→心マッサージといったパターン化です。特にがんで亡くなる患者の心マッサージには強い疑問を持ちました。
病棟は末期患者と家族にとって適切な環境ではありませんでした。個室が少なく、面談室も家族部屋もなかったのです。台所もあればいいのに、と思いました。
そんななか一九七七年、新聞にイギリスのホスピスの記事が載りました。それを読み、ぜひ訪問したいとの思いを持ちました。それが実現したのが一九七九年でした。現代ホスピスの第一号といわれるセント・クリストファーホスピスをはじめ、五つのホスピスを約一か月かけて訪問することができました。素晴らしい経験でした。明るさ、広さ、静かさ、温かさを持った施設も素晴らしいものでしたが、そこで行われているケアの質と、チームアプローチに感動し、日本にもこのようなホスピスをぜひ創りたいという強い思いが湧いてきました。
セント・クリストファーホスピスで二週間ばかり働かせていただき、「世界のホスピスの母」といわれるシシリー・ソンダース先生に直接指導を受けることができたのは、大きな特権でした。研修の最後の日の先生のお言葉が、私の人生を変えました。先生は、「もし私ががんの末期になって、強い痛みのために入院したときに、まず望むのは牧師が来てくれて、早く痛みが取れるように祈ってくれることでもなければ、経験深い精神科医が来てくれて、痛みのためにイライラしている私の悩みに耳を傾けてくれることでもありません。私がまず望むのは、私の痛みの原因をしっかりと診断し、痛みを軽減するための薬剤の種類、量、投与間隔、投与法を判断し、それを直ちに実行してくれる医師が来てくれることです」と言われました。先生は、私がクリスチャンの精神科医で将来日本にホスピスを創りたいと思っていることをよくご存じでした。そのうえでの私に対するありがたい助言を、間接的な表現でしてくださったのです。先生が言われたかったのは「信仰を持っていること、経験豊かな精神科医であることはとてもよいことです。しかし、ホスピス医になるためには、症状のコントロールをはじめ体を診ることが必要です」ということだったのです。私はその場で「体を診る研修」をしようと決断しました。

帰国してすぐ、院長に、ホスピスをスタートさせるために数年内科で研修を受けたいとの希望を伝えました。ホスピス構想に賛成してくれていた院長は、快諾してくれました。それから三年間、私は精神科の外来を担当しながら、かなりの時間を内科病棟で過ごしました。痛みのコントロールのための鎮痛剤の使い方、胸水や腹水を抜くこと、中心静脈栄養のための血管の確保、そのほか内科疾患全般の治療に関する経験を積みました。三年という短い期間でしたが、私は何とか「体を診る」ことができるようになりました。
ホスピス設立の構想が理事会でも認められ、そのための寄付、献金集めが、一九八二年にスタートしました。三年計画で二億円が目標でした。タイミングよく出版された拙著『生と死を支える――ホスピスケアの実践――』(朝日新聞社、一九八三年)を販売しながら、年間九十回の講演をしました。本の売り上げはすべてホスピス建設につぎ込みました。寄付や献金の集まり方は予想をはるかに上回りました。三年計画が一年九か月で、目標額の二億円の浄財がささげられました。そして、一九八四年に西日本で初めてのホスピス(二十三床)が竣工したのです。