新連載 あたたかい生命と 温かいいのち 第一回 「どのような生き方をするのですか」

福井 生
1966年滋賀県にある知能に重い障がいを持つ人たちの家「止揚学園」に生まれる。生まれたときから知能に重い障がいを持つ子どもたちとともに育つ。同志社大学神学部卒業後、出版社に勤務。しかし、子どものころから一緒だった仲間たちがいつも頭から離れず、1992年に止揚学園に職員として戻ってくる。2015年より園長となる。

私が園長を務めている止揚学園では、最重度と呼ばれる知能に重い障がいを持つ仲間たちが生活をしています。止揚学園は知能に重い障がいを持つ人も、持たない人も支え合い家族のように日々を歩んでまいりました。

私の両親は止揚学園の職員でした。知能に重い障がいを持つ仲間たちは物心ついたときから私のそばにいて、一緒に成長してきました。
そんな中、年下の私の面倒をお姉さんのように見てくれる人がいました。名前は純奈さんといいます。純奈さんに障がいがあることは何となく感じていました。保育園も年長組になるとだいたいのことは、私のほうが上手に早くできるようになっていました。それでも私の乗っている乳母車を押したこともある、私をおんぶして歩いたこともあると、いつまでも得意そうにしている純奈さんを見ていると、言葉にしてはいけないような気がしていたのです。純奈さんはお姉さんであり続けました。
私が高校に入る年齢になったとき、その高校は止揚学園から離れていたものですから、寮に入ることになりました。長い間帰らず、久しぶりに帰ってきた日のことでした。これまでずっと仲良くしていた純奈さんが、私の顔を見て、いつもだったら「ルーちゃん、お帰り」と、声をかけてくれるのに、そのときはちょっと考えて、そして明るく、今までそうであったかのように、「お帰りなさい、お兄さん」と、言ったのです。分かっていたことだけど実際にこのような形であっけらかんと言葉にされると、ちょっとしたショックと寂しさを感じてしまいました。そして、純奈さんには障がいがあるのだと、自分の心に、何度も言い聞かせるのでした。

純奈さんのお母さんが天国に旅立っていかれたのは去年の冬のことです。その日、「もう苦しそうな息をしているんや」と、お父さんから電話がかかってきました。私は急いで純奈さんと、お母さんの入院している病院へ駆けつけました。純奈さんが「お母さん、元気出して」と悲痛な声を出しても、お母さんは酸素マスクをはめて、苦しそうな息づかいを止めることはできませんでした。
お母さんは、それから三日後、神様のもとヘ帰っていかれました。告別式の日、純奈さんは、静かにしていました。私は心配になり、「大丈夫ですか」と声をかけました。すると、しっかりと私の顔を見つめ、「お母さん、神様が守っています」と、言ってくれたのです。その言葉は私の心の深い所に響いてきました。人が生きる勇気や、生きる喜びにあふれさせてくれる言葉だったからです。時間が元に戻り、子どものときのお姉さんの純奈さんがそこに立っているような錯覚がしました。
私はこの言葉に以前にも出合っていました。純奈さんが私のことを「お兄さん」と呼んだときです。
「私は知能に重い障がいを持っています。あなたは持っていません。あなたはこれからどのような生き方をするのですか」
純奈さんは、私に、もう子どもではないということを教えてくれていたのです。その言葉は私を冷たく引き離すものではなく、これからは、社会の中で弱い立場に立たされている人たちとともに歩む生き方をしてくださいと、切実に私に話しかけていたのです。あのとき、そこにいたのは紛れもなく、お姉さんの純奈さんでした。そのことに気づかされると、言葉は、優しさの中に強さを含み、私を温かく包み込むのです。

私は現在、仲間たちとともに歩んでいます。確かに純奈さんは知能に障がいを持っています。難しい話ができるわけでもありません。私たちは、仲間たちとの歩みの中で、聞こえない心の声に絶対に無関心であったらいけないと思うのです。なぜならその声にこそ叫びがあるからです。「私たちも同じ時に、同じ社会に生き、生命のつながりを求めているのだ。温かい生命が温かい生命に合わさりたいと願うように、私たちもここに存在しているのだ」と、最重度と呼ばれる知能に重い障がいを持つ人たちの心の叫びがあるからです。その言葉は決して攻撃的なものではなく、温かく優しく私たちを包み込みます。その言葉は「祈り」なのです。すべての人々の笑顔を願う、希望にあふれた未来を願う「祈り」なのです。仲間たちの見つめる先にこそ、明るい光が灯されているように思うのです。そしてその光は、神様のほうへと続いていることを私たちは仲間たちとの歩みの中で確信しているのです。