新連載 私の信仰履歴書 第一回 神の摂理の不思議

野田秀(のだ・しげる)
1932年生まれ。東北大学法学部、インマヌエル聖宣神学院を卒業。東京フリ-・メソジスト桜ヶ丘教会協力牧師。著書として「教会生活のこころえ」「新版 ひとり神の前に」などがある。東北大学学生歌の作詞者でもある。

人はだれでも幼少期を過ごした時代に影響を受けて育ちます。中でも“昭和ひとけた”と呼ばれる世代はその典型であると言えそうです。
“昭和ひとけた”の特徴は、何よりも軍国少年少女であったことです。ものを頼まれたら、本当は断りたいのにいやだと言えない傾向を持っているという指摘もあります。服従を美徳とし、周りに気遣いをする気質は、当時の教育と社会的風潮がもたらしたものであり、今なおそれを引きずって生きているところがあります。食べたい盛りに食べられなかったので、血管の膜が薄いなどと言われたこともありました。血管に欠陥ありです。
それらはどんな背景のもとに形成されたものだったのでしょうか。
昭和ひとけたの日本は、アメリカの大恐慌の影響を受けて不況に陥り、私が生まれた昭和七年(一九三二年)には犬養首相が暗殺された五・一五事件が起きました。それから軍部が台頭を始めたのです。ドイツではヒトラーがその力を増し、世界が戦々恐々とした空気に包まれていきました。日本は軍国主義一色に塗り固められ、日中戦争、第二次世界大戦参戦へと突き進んでいくのです。

奔流のようなその流れの中で、昭和ひとけた生まれの少年少女は、否応なしに「神国日本」の子どもであることに誇りを持ち、天皇のため、国のために死ぬことをいさぎよいこととして教えられました。子どもたちはものごとをよく理解しないままに、理解できないからこそそう信じたのでした。当時の子どもたちが持っていた情報量は、おそらく現代の子どもたちの百分の一にも満たなかったからです。
戦後に人間味あふれる作品を残した良識ある作家の城山三郎と藤沢周平が、ある対談の中で、ともに自分は軍国少年であったと語っています。この二人は昭和二年の生まれです。これによっても、軍国主義というものが当時の少年たちをいかに強く捕らえていたかということがよく分かります。
私の場合は、それに加えて家庭の背景がその後押しをしました。父が職業軍人だったからです(父は戦後、八十二歳で母とともに私の手から洗礼を受けます)。
父が軍人の道を選ぶに至るきっかけは、義理の兄(父の姉の夫)が昭和十一年(一九三六年)に起きた二・二六事件で暗殺された渡辺錠太郎大将であったことにあります。その娘がベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』を著したカトリックの渡辺和子さんであり、昨年天に帰られました。私たちはいとこ同士なのです。
そういう環境ゆえに私の兄も軍人になり、私も、当然すぎるほど当然に同じ道を歩もうとしていました。学校では教師が「アメリカの大統領はルーズベルトだ。名前の意味はだらしのないベルトということだ」と滑稽なことをまじめな顔で話し、子どもたちの戦意高揚につとめていました。そんな時代だったのです。
中学一年の夏、昭和二十年(一九四五年)の八月十五日、いよいよ目指す陸軍幼年学校の入学試験を受けようとしていた二日前に、突然のように戦争が終わりました。天皇の玉音放送でそのことを知り、茫然と私は外に出ました。そのとき、見上げた真っ青な夏の空をB29が飛行機雲をなびかせながらゆうゆうと飛んで行った光景が今も目に焼きついています。後日そんな話をしたところ、ある人から「人殺しにならずによかったですね」と言われました。そうかもしれません。しかし、その幸いと裏腹に、この日から目標のなくなった私の精神的放浪が始まることになります。
それに先立つ一年前、小学六年生のときに、私たち家族は疎開をかねて東京から父の赴任地である宇都宮に転居していました。転校した小学校に行くと、まだ私の机が用意されていませんでした。教師はその日休んだ生徒の机に私を座らせました。翌日、その生徒が登校して来たので、私はまた動かなければなりませんでした。しかし、その日出会った私たちはそれをきっかけに生涯の友となります。その十年後に友は私に続いてイエス・キリストを信じます。その友は、後に横浜山手教会(日本長老教会)で長年奉仕された森和亮牧師です。
神の摂理の不思議はしばしば人との出会いに具体化されます。私が経験したその不思議のいくつかを、若かったころを中心に紹介したいと思います。
「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、何と測り知りがたいことでしょう。」(ロ―マ11・33)