私の信仰履歴書 第二回 神さまが送ってくださった使者

本誌『いのちのことば』を発行している、いのちのことば社は東京の中野にあります。中野は私にとって懐かしい土地です。それは幼少期をそこで過ごしたからであり、いのちのことば社がある辺りも“冒険”と称して走り回った場所ですから、不思議な導きを感じます。
当時の中野駅前は広々と開けた所で、よくサーカスやおどろおどろしい見世物がかかったものです。“がまの油売り”がしぶい声で口上を並べるのを、少年の私はいつまでもそこに立って聞いていたことが思い出されます。
しかし、太平洋戦争が始まって間もなく、小学四年生のときにわが家は荻窪に引っ越します。そのことが、将来、私が救われてクリスチャンになる布石になるとは、ただただ神のみぞ知るところでした。それについては、あらためて次回に述べることにいたします。

ここでは、敗戦によってもたらされた、私の精神的放浪について述べたいと思います。なぜなら、それがクリスチャンになる素地の一つとなったことに違いはないからです。

前回少し触れたことですが、私たち家族は一九四四年(昭和十九年)に、東京から父の赴任地であった宇都宮に転居しました。その一年後の八月十五日に敗戦を迎え、中学一年生であった私は、緊張状態から一気に精神的弛緩状態へ追いやられることになります。国民の誰もが、食料は乏しくても、警報におびえる必要がなく、電気をつけて生活できることをどんなに喜んだことだったでしょうか。その一方で私はそれを受け止めかねるものを持っていたように思います。
中学一年といえば、十三、四歳です。かつて、NHKの出版物の中に、人は、その年齢のときに社会的に大きな出来事に直面すると、その世代には、共通の精神的な影響が後々まで残るものだということが指摘されていました。その最も顕著な例として、その年齢で敗戦を迎えた昭和七、八年生まれが「敗戦グループ」と名づけられていたのには苦笑させられました。今にして思えば、この私もまさにその状態に置かれたのでした。戦後の少年たちが夢中になったものに野球があります。草野球は夢中になれる唯一の楽しみであったからです。道具も満足にそろわない中で、お腹をすかせながら、夕方暗くなるまでボールを追いかけていました。

中学から新制の宇都宮高校に移行する過程で、私は勉学上で一つの壁に突き当たります。サイン、コサイン、タンジェントというあの三角関数が登場したあたりから数学が突然理解不能になり、成績が急降下を始めました。大学受験の時期が少しずつ近づいたある日、受け持ちの先生が心配されたのでしょう、家庭訪問に訪れ、母に「野田くんには何か悩みがあるのでしょうか。哲学にでも凝っているのでしょうか」と尋ねているのを横の部屋で他人事のように聞いている私でした。
勉学のこともさることながら、それ以上に私は目標を失ってしまい、学ぶ意味も分からないままに、受験勉強にも身が入らない日々をむなしく過ごすばかりだったのです。自覚する以上に、天皇のために、日本の国のためにという使命感が私を強くとらえて放さなかったのでしょう。天皇に代わって主イエス・キリストが私の前に立ってくださるまで、その状態は続くことになります。
そんな私を見ながら、私の気がつかないところでひそかに心配してくれている人がありました。小学校からの友であり、この間まで草野球の仲間であった大場廣くんです。ある日、彼が黙って新約聖書を手渡してくれました。彼はクリスチャンであったわけではありません。しかし、ご両親が聖公会のメンバーであったので、私よりずっと前から聖書を知っており、聖書が私の支えになるのではと考えてプレゼントしてくれたのでした。そのときの私はそれをどう受け止めたらよいか分からずに戸惑うばかりであり、黙ってそれを受け取ったように記憶しています。

大場くんは後に医師となり、長く水戸の日赤病院の院長を務めましたが、六年前に難病のために亡くなりました。病床に彼を訪ね、感謝を表し、証しをさせていただけたことを感謝しています。大場くんは私をキリスト教に触れさせてくれた最初の人であり、あらかじめ神さまが送ってくださった使者でありました。
「神よ。あなたは、いつくしみによって、悩む者のために備えをされました」(詩篇68・10)