私の信仰履歴書 第六回 牧師としてとても大事なこと

野田 秀

昭和の三分の一は、「一億一心」「万世一系」「八紘一宇」というように「一」に帰一されていました。戦後の三分の二は、「多様性」「多数決」「多目的」のように「多」に象徴される時代に変わりました。それは実に大きな変化であったのですが、日本社会はそれを柔軟に受け入れ、いわゆる“戦後民主主義”が花開いていきました。しかし、周囲はそうなっても、私自身はそれについていけず、他人がどれほど自分と違った考え方をするものであるかということにすら気がつきませんでした。とにかく、やや偏りを持った牧師による開拓伝道が開始されたのでした。

当時の生活は、あるのは電灯だけで、ガス、水道、お風呂、ガラス戸はなく、電話もありませんでした。そのためか、電気代が毎月最低料金だったのですが不思議にも思いませんでした。あるとき、集金の人が、メーターが反対に回っていることに気がつき、それから交換し、正常の支払いをするようになりました。こういうことは、神のあわれみ、神のユーモアと言ってよいのでしょうか。しかし、戦争中の大変さを考えれば、生活上のことはさほど問題ではありませんでした。問題は、自分自身がどういう人間であるかということであり、牧師が務まるのかということにありました。
そのころ、結婚のことはあまり考えていませんでした。一人で頑張るのだと力が入っていたのです。しかし、神は、そういう私を見ておられ、これでは教会を任せてはおけないとお考えになったのでしょう、一つの考え方に固執しやすい私のために、正反対の女性を備えていてくださったのです。大学生のときに、キリスト者学生会(KGK)の仲間であった五十嵐綾子さん(後の土屋順一牧師夫人)が、玉川聖学院の同僚である太田比那子を紹介してくれました。彼女は理科の教師であり、不思議なことに、私が初めて出席したインマヌエル丸の内教会のメンバーでした。

一九六○年(昭和三十五年)秋に私たちは結婚します。妻は最初の礼拝のことをこう書き残しています。「礼拝を終わって、さて、私ども二人を除くと礼拝出席者は二名にすぎなかった。二百名以上も出席者のある礼拝にそれ迄つらなっていた人間にとって、その事は随分ショックな出来事ではなかったか。ところが当の私は何も感じなかったのだから不思議だ」
こんなところに、現実に動かされず、クールにものを見る彼女が表れています。この人と生活をともにするようになって、初めて私は自分と違う見方、考え方、感じ方をする人のあることに気がつくのです。彼女は理系的な考え方の人であり、私は典型的な文系の人間であったからです。その差異は決して小さいものではありませんでした。あまりに違う現実に、それは、かえって二人を楽しませてくれたようでもありました。
結婚して間もなく「みかんの皮のむき方事件」がありました。
みかんの皮をむきながら、ふと妻の手もとを見ると、彼女は“へた”のある方からじょうずにむいているではありませんか。子どものころから“へた”のないほうからむいていた私は、なぜそっちからむくのかと尋ねました。妻は「こちらからのほうが、すじが取れやすいのです」と答えました。どこまでも合理的なのです。
「自転車事件」もありました。
妻は挑戦したのですがとうとう自転車に乗れませんでした。私は子どものころから自転車に乗ってあちらこちらへと“探検”したものです。ところが、妻は自転車が倒れずに走る「慣性の法則」の講義ができます。一方、私はその理屈はよく分かりませんが、自転車に乗ることはできます。どちらがよいのだろうかなどと話すうちに、私は少しずつですが、人間の理解を増していったようでした。それは、牧師としてとても大事なことでした。多様な人々が一つの信仰を持って教会に集まる不思議を、私は自分の結婚生活の中にも見させていただいたと思っています。主は、私のために最もふさわしく、必要な伴侶を与えてくださったのです。
妻は、二年前の秋に「アーメン」の一言を遺してイエスさまのもとに召されていきました。彼女と交わした貴重な経験は、すべて神の温かいご配慮によるものであったと感謝しております。
「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」(Ⅰコリント12・12)

野田秀師の名著がオンデマンドで再版されました.。ぜひお買い求めください。
◆『ヤコブの手紙 』2,600円+税 ◆『御霊の実とキリストの生涯(新版)』1,700円+税
◆『仰ぎ見る日々』3,600円+税 ◆『ひとり神の前に (新版)』1,800円+税