聖書 新改訳2017―どう新しくなるのか? 第8回 聖書釈義の点から

内田和彦
前回、新約聖書の本文研究の結果、必要となった翻訳の変更について紹介しましたが、今回は、聖書学の進歩によって生じた釈義上の変化についてお伝えしたいと思います。

マタイの福音書2章には、幼子イエスにまみえる東方の博士たちの話があります。まず第三版までの新改訳と『新改訳2017』の訳を比べてみてください。1節、2節、9節、それも後半だけで、注目していただきたい言葉には傍線を引いてあります。
第三版「1b 見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」
「2b 私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
「9b すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、」
2017「1b 見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」
「2b 私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
「9b すると見よ、かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、」
かつては、多少訳し方の違いはあってもみな「東の方」と訳されていたのに、2節、9節では、「昇るのを」と訳すことになりました。使われているのはギリシャ語の「アナトレー」ですが、1節では複数形で無冠詞、2節、9節では単数形で冠詞がついています。BDAGという略号で知られる新約聖書のギリシャ語辞典や、同じくLSJと略される古典ギリシャ語の辞典によれば、複数形は「東方」、単数形は「昇ること」を意味します。しかもBDFという新約聖書ギリシャ語文法書によれば、「アナトレー」が方角を表す場合は普通、無冠詞であるとのことです。

次に使徒の働き17章32?34節を取り上げましょう。パウロのアテネ伝道の結果を語るくだりです。やはり、新旧の訳文をまず比較していただきたいと思います。
第三版「32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう』と言った。 33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。 34 しかし、彼につき従って信仰に入った人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。」
2017「32 死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは『そのことについては、もう一度聞くことにしよう』と言った。 33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。 34 ある人々は彼につき従い、信仰に入った。その中には、アレオパゴスの裁判官ディオヌシオ、ダマリスという名の女の人、そのほかの人たちもいた。」
伝統的に、パウロのアテネ伝道は失敗に終わったと理解されてきたようです。コリント人への手紙第一2章で、アテネからコリントに移ったとき「弱く、恐れおののいて」いたとパウロ自身が語り、自らの伝道について反省しているように見えるからです。また、ギリシャ人が復活のメッセージを受け入れることの困難さも想像できるからです。それで、第二のグループは、体よく「またいつか」と先延ばししているように訳されてきました。しかし、「またいつか」という言葉は、「また再び」であって、まじめに聞きたいと思っている可能性もあります。また、二つのグループ、「あざ笑った」者たちと「ほかの者たち」は、原文で対比されています。パウロの伝道がほぼ全面的に拒否されたのであれば、パウロについて行って信じた人々の存在にルカが言及していることも解せません。さらに34節で「つき従い」と訳されている語は、膠がくっついて離れないといった意味の言葉で、彼らが明確な意志や熱心さをもって従った様子がうかがわれます。このようなことから、最近は、第二のグループの人々が「もう一度聞くことにしよう」と積極的な態度を示したという解釈が、受け入れられつつあるように思われます。

ヨハネの福音書4章24節が、「神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」から、「……御霊と真理によって礼拝しなければなりません」に変わると知ったら、驚かれるでしょうか。どちらも可能で、意見の分かれるところですが、この福音書では「霊」は聖霊のこと、「まこと」と訳される「アレーセイア」は神が明らかにされた「真理」である可能性が高いと判断したからです。また、特に後者は人間の「まこと」というより、真理であるキリストご自身だからです。紙面が尽きましたので、詳しい議論は紹介できませんが、新しい訳によって、礼拝が人間の営みである以前に、神が可能としてくださる恵みであることが明らかになると思います。