時代を見る眼279 [3]宗教改革500周年をこえて 最後は“ただ神にのみ栄光!”

神戸改革派神学校 校長
吉田 隆

私の学生時代に伝説になっていた教育者に、林竹二という先生(故人)がおられた。洗礼を受けていたそうだが、先生のご専門はソクラテス。著書に『若く美しくなったソクラテス』(1983年、田畑書店)という本がある。その中で、ギリシャ語の「ドクサ」という言葉を巡る議論があったことを今でも覚えている。
新約聖書のギリシャ語をかじったばかりだった私には「ドクサ」と言えば「栄光」としか浮かばなかったが、「ドクサ」には本来人間の思い込みという意味があり、そこから人間を解放して真の善に導くことがソクラテスの言う“無知の知”なのであり、先生もまたそれを教育の方法とされていた。
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“ただ神にのみ栄光”こそが、カルヴァンの、そして改革派教会のスローガンだと教えられて育った。が、いろいろ広く学ぶうちに、ルターも言っていたし、なんとカルヴァンと同時代人のイグナチウス・デ・ロヨラが創設したイエズス会のスローガンだったこともわかった。
考えてみれば、当たり前である。およそ神を愛する者たちが、何よりも神さまを第一にしようと心を高く上げることに何の不思議もない。そのような言葉の本家争いをするのは、何だか親の愛情を独り占めしようとする子どもたちの争いに似ている。
エキュメニズムという言葉がある。元の言葉は「オイコス(家)」というギリシャ語に基づいている。キリスト教はもともと一つの家族であった。何より主イエスが十字架におかかりになる前の晩に祈られた祈り(ヨハネ17章)の中心は、弟子たちが一つとなるようにという願いであったのだ。親の心、子知らず。その後のキリスト教の歴史は分裂の繰り返しである。
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真のエキュメニズムは聖書の教えを曖昧にして妥協することではない、と私は思う。そうではなく、キリストを愛し、“ただ神にのみ栄光”と主張している人々が、その信仰を互いに認め合うことなのだと思う。互いに対する偏見(ドクサ)から解放されて、ただ神にのみ真の栄光(ドクサ)を帰することだ。だれが一番かが問題ではなく、神が一番になることが大切なのだから。
そんな思いをもって宗教改革500周年の一年を振り返り、また新しい年を迎えたいと心から願うものである。
ただ神にのみ栄光を帰して!