リレー連載 ことばのちから 第1回 「ことばのたね」を育てる

美馬 里彩(みま・りさ)
関西学院大学社会学部社会福祉学科卒。社会人経験を経て、現在、大阪教育大学大学院在学中。

今日、「ことば」そのものがもつ意味が薄くなってきているのではないでしょうか。そんななか、「いのちのことば」という名を冠する雑誌としても、その「ちから」について改めてご一緒に考えていきたいと思います。第一回目は、この企画の発案者の一人である美馬里彩さんです。

現在は情報化社会とも言われ、私たちは、得たい情報をいつでもすぐに得られる時代に生きています。一九九〇年代を境にインターネットが普及し、今日では若者を中心に一人一台のスマートフォンを持つのも当たり前となりました。「情報」だけでなく、「物」も溢れる時代になりました。街に出れば、「物」に溢れている様子は一目でわかります。これは、私たち現代人が生産性・効率性を求めた結果で、当然それによって、より快適な生活ができているのも事実です。
若者の多くは、テレビではなく、インターネットを通じて見たい時間に動画を見ます。わからないことがあったら、インターネットで検索すれば、すぐに情報が得られます。人と連絡を取るのも、取りたい時間に短い会話文を送り合います。それが携帯電話のアプリ・LINEの仕組みです。便利で効率的で、使い勝手がとても良いものです。最近ではSNS(ソーシャル・ ネットワーキング・サービス)が発達し、十代二十代を中心として、ほとんどの人が使っています。私の周りにいる二十代前半の学生たちは、SNSの文化、つまり、ネット上での会話を大事にしています。今では小学校高学年になると、スマートフォンを買ってもらう子も珍しくないようです。
けれども、その結果、私たちは何か「大切なもの」を失ってしまったのではないかとも思います。大量の情報が流布し、それとともに、私たちの言葉自体が軽くなってしまい、「人と人」とが「出会い」、「言葉を交わし」、「関係性を築く」という、人間としての本来のあり方を見失ってきているのではないかと感じるのです。言葉が軽くなったのは若者たちだけにとどまらないように思います。テレビをつけたり新聞を読んだりすると、政治家など著名な方々の語ることはコロコロと変わり、言葉が言葉としての意味をもたなくなっていると感じるのは私だけでしょうか。
そもそも私たちは、コミュニケーションツールとして、日々、「ことば」によって、自分の思いを相手に伝え、「ことば」によって、相手の思いを受け取って生きています。「ことば」は、思いを伝える人にとって、その人のいのちそのものであると言えるかもしれません。思いの込められた「ことば」は、人のいのちを生かすほど、「ちから」を持つものであり、語るその人の一部であると言ってもよいのではないのでしょうか。私にそのことを教えてくれたのはミヨさん(仮名)でした。
ミヨさんと私とは、三年ほど手紙のやり取りをしています。ミヨさんは携帯電話を持っておらず、連絡方法は、緊急の時は電話ですが、たいてい手紙です。これまでに直接お会いしたのは二回だけです。私はミヨさんに、よく手紙を通じて相談をします。あるとき、自分の進路相談をしたことがありました。そのときミヨさんは手紙にこのようなことばを認めてくださいました。
「多くのことを悩みもがいていると書いてありましたが、とても大切な心の作業と思います。時間をかけ、ゆっくりと悩んで本来の自分と出会ってくださいませ。そこから借りものではない、自分のことばを産み出してくださいませ。最後の最後まで自分を信じて、根をはってください。その根を少しずつ深めてくださいませ。根の深さに比例して、笑顔の輝きに、他者に安らぎを与えるような豊かさが自然と生まれると思います。」
ミヨさんの手紙はいつも短く、わかりやすいことばで書かれています。ミヨさんのお手紙から、何日もかけて、私のことを一生懸命に考え、ことばを一つひとつ選んでくださっているのを感じます。
ミヨさんから羽ばたいた「ことばのたね」が私のもとに届き、今、その「ことばのたね」を大切に育てているところです。私にとって、ミヨさんからの「ことばのたね」は、私の人生を生かすほどの「いのちのたね」となりました。そして私は、何者かにならなければいけないという考えを捨て、自分の心の根を深く張り、いつの日にか咲く花を信じて、本来の自分と出会う旅路に出かけることにしました。
言葉には限界がありますが、それでもその中に、限りない感謝の気持ちや、愛をこめることができます。言葉が軽く中身のないものではなく、その言葉が意味を伴ったものとして、羽ばたいていくとき、そこには無限の可能性が秘められていると私は信じるのです。