『歎異抄』と福音 第七回 十字架における神の義と愛との違い

大和昌平

「罪悪深重煩悩熾盛」と畳み掛ける表現は、一度聞くと忘れられないインパクトがある。『歎異抄』第一章には、生きるものが根底に抱える悪性ゆえの苦しみへの阿弥陀仏の憐れみが語られていた。印象的な表現を再度引く。
◇「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、たゞ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。」(第一章)|阿弥陀仏の本願は、老人であろうが若者であろうが、善人であろうが悪人であろうが関係はないのです。ただ信心だけが必要なのだと知るべきです。その理由は、深く重い罪悪と燃え盛るほどの欲望を抱える我々を助けようとしての本願だからです。
ここには善悪の区別を超えた救済を語る点でキリスト教との類似性がある。信心が要だとするのも、「信仰のみ」の宗教改革の旗印を思わせる。しかし、それに続く「悪をも恐れるな」との展開に違和感を感じてしまうのである。
◇「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にはあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと、云々。」(第一章)|であれば、阿弥陀の根源的な願いを信じるために、なにか他の善行が求められることはありません。念仏に勝るような善はないからです。悪さえも恐れるべきではありません。阿弥陀仏の本願を妨げるような悪などないからです、と。
阿弥陀仏の本願を信じることに勝る善はない。この表現は、マルチン・ルターの『善きわざについて』を思わせる。信仰義認を唱えたルターに対し、カトリック教会は倫理的行為を不可能にする教えだと非難をした。対するルターは、最高の善きわざは信仰であり、信仰こそが善きわざを生むのだと反論した。『善きわざについて』は十戒の講解書であり、聖書からキリスト教倫理に説き及んでいる。この展開は、『歎異抄』の先の言葉と明らかに異なるものだ。  キリストによる救いは、善悪の道徳的な規準をいったん超えるけれども、そこから信者は善きわざに押し出されてゆく。それは信仰義認から聖化への展開であり、この間、神の義は一度たりとも揺るがせにされることはない。
『歎異抄』は「悪をも恐るべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」と語っている。善悪を超えた阿弥陀仏の本願が語られたのち、悪を恐れることはない、阿弥陀仏の本願を妨げる悪などはないからだと展開する。そうすると、阿弥陀仏の本願を信じる者は善に生きようと、悪に生きようと、どうでもよくなるのではないだろうか。キリスト教でいう無律法主義を結果してしまうのではないだろうか。これが私の基本的な疑問である。

『歎異抄』の後半では、逆に善きわざに生きるのでなければ、極楽往生はかなわないと説く者たちに対する批判が述べられる。キリスト教でいう異端を異安心あるいは異義と呼ぶ。この異安心は律法主義への逆戻りであり、無律法主義に対する反動であったとしても、解決にはならない。この問題は今後も『歎異抄』を読み進めながら慎重に扱っていきたいが、『歎異抄』と福音が似ているようで決定的に異なる点である。
内村鑑三(一八六一|一九三〇)は親鸞を尊敬し、信仰を親鸞から学んだとも述べているが、「仏教対基督教」(『聖書の研究』三五一号、一九二九年)において相違を明確にしている。「基督教に最も近いと称せらるゝ浄土門の仏教に於いて弥陀の他力本願が唱へらるゝと雖も、之をキリストの十字架上の罪の贖と比べて其間に天地の差のあることを認めざるを得ない。弥陀の慈悲が慈悲のための慈悲であるに対して、キリストの愛は義に基づける愛である。基督教の神は義の神であって、義に由らざれば人の罪を赦さず、義に由らざれば救を施したまはない。……其故如何となればキリストに於いてのみ神の義が完全に行はれたからである。救の目的は人をして義たらしむるにある。キリストの愛は義に拠る義の為の愛であつて厳密なる義を離れてキリストの救は無いのである。
阿弥陀仏の神話で語られる慈悲は、法蔵という名の人間が自分に頼る人を助けたいという願い(本願)であった。その慈悲は人から人への水平の関係であり、内村は「弥陀の慈悲は慈悲のための慈悲である」と言う。
聖書において、創造主である神がご自分に似せて造られた人へ愛は、垂直の関係である。神に背を向けた人を再び良しとするために、御子のいのちという無比の代価を神は求められた。それが内村の言う「義に拠る義の為の愛」である。だから、キリストの義に与った私たちは、「まず神の国と神の義を求め」(マタイ6・33)ていて、「悪をも恐るべからず」に違和感を覚えるのである。