特集 歴史を知る ― 信仰深化への手がかり 継続されてきた「主の働き」

『地図で学ぶ宗教改革』
ティム・ダウリー 著、青木義紀 訳
190㎜×240㎜ 定価1,000円+税

 

単立 飯能キリスト聖園教会 牧師 若井和生

岩手の花巻にかつて、斎藤宗次郎という内村鑑三の弟子がいました。この斎藤宗次郎の日記を編集して出版されたのが『二荊自叙伝』(岩波書店)です。この本は私が岩手の教会で牧師をしていたときに、私の愛読書の一つでした。福音に閉鎖的な花巻の地で、キリスト者として生きる時に味わう闘いと喜びの両方が、この本には記されているからです。同じ岩手の地で信仰を与えられて歩む者として、そこに記されていることがとても他人事としては感じられないのでした。
この斎藤宗次郎に内村鑑三は二百五十六通もの手紙を書き送ったといいますから驚きです。そのほとんどを宗次郎は大切に保管しました。そのおかげで、それらの手紙を紹介する『内村鑑三とひとりの弟子』(教文館)なる本もその後、出版されました。
この本を読むと、宗次郎の花巻での激しい信仰の闘いは内村の愛情と祈りとによって本当によく支えらえていたことがわかります。また、弟子との関係では大変苦労したといわれる内村も、宗次郎という弟子の存在によって深い慰めを得たことが感じられます。
そんな二人の文章を丁寧に読んでいると、それらがあたかも自分に宛てて記された文章であるかのように感じられる瞬間があります。宗次郎と内村の間で交わされた愛の交流の中に、自分も加えられているような錯覚を覚えるときがあります。それは独りよがりな思い込みであることを十分に承知しながら、しかし、それは私にとって至福のひとときです。私の心が、当時の信仰者たちの生きた信仰に、時を超えて触れるひとときだからです。
それにしても昔の信仰者たちには筆まめな人が多いと感心させられます。日本各地を歩いて伝道し、各地の様子を日記に克明に書き留めたハリストス正教会のニコライ神父。東日本大震災後に私はこのニコライ神父の日記を熟読し、津波で被災したあの三陸地域で、かつてたくましい宣教活動がなされていたことを覚えることができました。
さらに『上毛教界月報』の編集に生涯にわたって心血を注ぎ続けた群馬・安中教会の牧師、柏木義円。神学生時代、私は神学校の図書館に夏休みの間中こもり、この『月報』を読みふけりました。その内容の多さと豊さには圧倒される思いがしました。
このような様々な著作が残されているおかげで、福音のバトンが自分のところまで、どのような経緯で届けられたかを私たちは確認することができます。そこで注がれた情熱や犠牲の大きさに気づかされると感謝の思いが新たにされ、委ねられたバトンの尊さに気づかされるのです。

昨年は宗教改革五百年の節目の年でした。これを機に宗教改革関連の本が多く出版されましたが、その中で『地図で学ぶ宗教改革』はとても参考になりました。宗教改革の今日まで続く広がりと深まりとを、地図を通して教えられるからです。宗教改革を始めたのはルターでしたが、ルターによって始められた改革を発展させたのはカルヴァンでした。その際にカルヴァンが著した『キリスト教綱要』がおおいに用いられたことは言うまでもありません。
カルヴァンはそもそも、なぜ『綱要』を書こうと思い立ったのでしょうか。その最初のきっかけはフランスのプロテスタントの信者たちを擁護するためだったといわれています。ルターによる宗教改革が始まってから二十年程の月日が経過していました。宗教改革運動がヨーロッパの各地に広がり、プロテスタントと呼ばれる新しい信者が増えるに連れて、様々な混乱も各地に広がっていきました。
その中でプロテスタントの信者たちが最も過酷な闘いを強いられたのはフランスでした。自らもフランス人であり、当時バーゼルに亡命していたカルヴァンは、やがて「ユグノー」と呼ばれるフランスの新しい信者たちを何とか励ましたいと思いました。そこでカルヴァンはフランス王に献上する目的で『キリスト教綱要』の執筆を開始しました。
その後ジュネーブに移った後もカルヴァンは『綱要』の執筆をやめませんでした。その内容を何度も吟味し、さらに必要な聖書の教理を的確なことばでまとめ、何度も書き加えていきました。そのようにして組織神学の傑作が生み出されていくわけですが、背後にはフランスの信者たちを支えたいというカルヴァンの愛と祈りがあったことがわかります。
最近私は、カルヴァンがその弟子とともに起草したという『フランス信条』を読みました。そしてその前文を読んで、心を強く打たれました。フランスのプロテスタントの信者たちが当時、非常に厳しい迫害にさらされていたことが、その文章を通してわかったからです。この信条は、そのような彼らの苦境をフランス王に訴えるために、書き記されています。王に対する最大限の尊敬を払いながらも、しかし、彼らは真の王である神に対する信仰を高らかに告白しました。
この文章を読んで当時のキリスト者たちにとって、信条や信仰告白というものがいかに大事なものであったのかがよくわかりました。「難しい」「かたい」「読みづらい」とそれまで感じられていた歴史書や神学書に突然血が通い始め、熱を帯びたように感じられてくるから不思議です。そして、今の私たちよりもはるかに厳しい時代に生かされたキリスト者たちの信仰とその生き様に、大きな励ましを与えられます。

様々な歴史書を読みながら感じさせられるのは、教会を愛する人たちがいつの時代にも必ずいた、という事実です。教会の歴史のその多くは、教会が腐敗し、堕落し、きよさを失っていく歴史といってよいでしょう。初代教会の時代に見られた生きた信仰のあの溌溂さは次第に失われ、教会は多くの問題を抱えるようになっていきます。
しかしどんなに深刻な問題を教会が抱えても、必ず教会を愛し、改革を志す者たちが現れます。そして聖書を土台とした改革が必ず始まります。様々な時代の制約や人間の弱さのゆえに、それらの改革は必ずしも十分なものとはいえないかもしれません。今の時代の基準に照らし合わせるときに、指摘しなければならない点も多く見られます。それでも、それらの働きを引き継ぐ人たちがまた現れます。そのようにして主の働きが継続されてきたことがよくわかります。それらの軌跡をたどりながら、「教会はこんなにも愛されてきたのか」としみじみ思います。
歴史を支配する神は、なぜ愚かな人間たちを通してみわざを推し進めようとされるのでしょうか。人間の弱さ、愚かさのゆえに教会は多くの問題を抱え、主のみわざは著しく阻害され、神の救いのご計画は中断されたかのように見えるときがあります。主はそれでも、そんな私たちを用いて主の働きを推し進めようとされます。そしてそれは確実に完成に近づいています。
神のご計画の末端に私たちが位置づけられていることを知らされるとき、与えられた使命の大きさと厳粛さに襟を正されます。主に対する信仰と、教会に対する愛を新たにされつつ、今日もみわざに励みたい。そんな願いと力を歴史から豊かに与えられるのです。