リレー連載 ことばのちから 第5回

リレー連載 ことばのちから

今日、「ことば」そのものがもつ意味が薄くなってきているのではないでしょうか。そんななか、「いのちのことば」という名を冠する雑誌としても、その「ちから」について改めてご一緒に考えていきたいと思います。第5回は、OMFインターナショナル宣教師の蔡香さんです。

第5回 言葉本来の力を取り戻す
「言葉は人をつくる。だからこそ、口に出す言葉はよく考えて大切に」
先日、あるテレビ番組で、将棋棋士の羽生善治さんが語ったこの言葉に、多くの人が感銘を受け、話題になりました。インターネット、SNS、ソーシャルメディアの広がりの中で、私たちの生活には、言葉があふれるようになりました。人と人を瞬時に繋げ、必要な情報を即座に流す手段として、言葉はその利便性を増しました。その一方で、容易に書き換えられ、削除されうる情報として、言葉がその重みを失ってきていることも事実です。その傾向に、どこかで危機感を感じているからこそ、羽生さんの言葉の真実が、多くの人の心に響いたのだろうと思います。

子育て真っ最中の親として、羽生さんの言葉は、私の心にも印象深く残りました。多くの子育ての本では、子どもに向かって否定的な言葉を使わず、肯定的に話しかけることがいかに大切であるかを説いています。それはまさに、「言葉は人をつくる」からでしょう。確かに、親が言った一言が、その子を生涯支える場合もあれば、その子に生涯の傷を負わせてしまう場合もあります。言葉とは、恐るべき力を秘めているものです。そのことを頭で理解してはいても、その力を良い方向で用いることは至難の業であり、人間の力で制御できるものではないと、聖書は語ります(ヤコブ3・8)。
振り返ってみれば、人を建て上げるよりも人を傷つけるために、人を愛するよりも自分を守るために、言葉を使ってしまうことが、いかに多いことでしょう。言葉のもつ力とは、いったいどのようなものであり、私たちはそれをいかに用いることができるのか、改めて考えさせられます。

言葉には力があると、聖書ははっきりと教えています。神はことばによって、世界を創造されました。何もないところに、神がことばを発せられると、そのとおりになりました。神はことばを通していのちを生み出し、世界を形造られたのです。この神のかたちとして造られた人間にも、言葉が与えられました。神のことばを映すものとして、私たちの言葉にも、創造力が備えられています。私たちは、言葉をとおして、自分の意志を伝え、それを実現することができます。また、言葉をとおして、周囲の人に励ましや癒やしをもたらし、その逆に、人を欺き、傷つけることもあります。良くも悪くも、言葉とは、周囲の人に働きかけ、新たな現実をつくり出す力をもつのです。

それでは、言葉の力はどこから来るのでしょう。言葉は人の心と密接に繋がっています。「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ12・34)とキリストが語られたとおり、言葉は人の心の内を表します。聖書において、心とは、人の人格の中心であり、私たちの思考、感情、意志の源なる「いのちの泉」として、力の限り、見張り、見守るべきものとして教えられています(箴言4・23)。神は、みことばをとおして、人間にみこころを表します。みことばは、みこころと完全に調和し、みこころを完全に実現します。
一方で、罪人なる人間の言葉は、その心との不調和が目立ちます。言葉の意味を自分で考えることなく、周囲に流れる言葉を何となく口にすることもあります。言葉だけが一人歩きしてしまうと、薄っぺらな言葉、表面的な言葉になり、言葉はその力を失います。いつどこででも、無数の言葉に囲まれ、あらゆる言葉とすぐに繋がることができる現代だからこそ、かえって、自分の心からくる言葉を見失いがちなのではないでしょうか。どこかで借りてきた言葉ばかりを話していると、自分が何を考え、何を願っているのかさえもわからなくなります。心もまた、言葉を介して理解されるものだからです。このように、心が置き去りにされた人の口から出る言葉は、もはや、真の創造力を失い、逆に破壊性を帯びていきます。

私たちの言葉が、その本来の力を取り戻すためには、創造主のみもとに帰ることが必要です。日々の喧騒の中で、神の御前に一人で静まる時間が不可欠です。携帯を置き、パソコンから離れ、神と二人きりになります。その静けさの中で、自分の心の騒音が響いてくるかもしれません。そのままの自分で、神の御前に出て、自分の心を開き、神の語りかけを聴きましょう。
このような主との対話の中でこそ、私たちは本当の自分を見いだし、自分自身の言葉を取り戻していくのです。(次回に続く)