リレー連載 ことばのちから 第6回 人格的な神のことば

蔡 香

今日、「ことば」そのものがもつ意味が薄くなってきているのではないでしょうか。そんななか、「いのちのことば」という名を冠する雑誌としても、その「ちから」について改めてご一緒に考えていきたいと思います。第5回に引き続き、宣教師の蔡 香さんのお話しです。

テクノロジーの時代に生きる私たちにとって、言葉とは、情報を伝え、意思疎通を瞬時に可能にする手段です。言葉を巧みに操り、人を動かし、自分の望む結果を出すことは、社会で生き抜くために必要な能力と見なされています。言葉とは、自分の目的のために利用し、自分の望む現実を創造するための手段なのです。このような姿勢は、人間関係のあり方にも影響を及ぼしています。人に好かれるための会話術、自分の望みどおりに相手を変えるための対話法、子どもを親に従わせるための魔法の言葉など、私たちの欲望をくすぐるタイトルが、本屋の店頭を賑わしています。

しかし、神のことばは、神の自己実現の手段ではありません。神は、ご自分の潜在力を開花させるための手段として、人間を造られたのではなく、人を愛するために創造されました。神は永遠に完全な三位一体の愛の交わりに生き、みむねを完全に成し遂げることができるお方です。その喜びを表し、分かち合うために、神は人を造り、世界を造られました。神のことばは、神の愛と栄光を表し、新しいいのちを生み出し、愛の交わりをつくります。つまり、神のことばは人格的であり、その創造力は人格的な力なのです。

神のことばの人格性を最も完全に表されたのは、イエス・キリストです。キリストは、神の「ことば」として、神のご性質、ご栄光、みこころを完全に表されます(ヨハネ1・1)。キリストの語られたことばには力があり、律法学者を驚嘆させ、罪人を赦し、病気を癒やしました。このキリストから、人格的な言葉について教えられます。
まず、人格的な言葉は、対話のなかで生まれます。神は、律法によってのみ、みこころを人間に伝えることもできたはずです。しかし、神は「受肉」という驚くべき方法を選ばれました。神ご自身であられるキリストは、天から下り、人となって、共に生きる神としてご自身を表されました。一方的にみことばを語るのではなく、人の心に耳を傾け、その応答としてのみことばを語られました。そのことばは、いつも父なる神との交わりに基づき、聴く人の心を動かし、応答を招きました。私たちの言葉も、人格的な対話のなかで生まれ、培われるものです。相手の状態を理解せず、一方的に自分の言い分だけを伝えるような言葉が、相手の心に届くことはないでしょう。謙遜と忍耐をもって相手に耳を傾け、相手の言葉によって動かされた自分の心の応答を、御前で正直に振り返ります。相手に聴き、自分に聴き、神のみ声を聴く時間を通して、私たち自身の心が取り扱われ、悔い改めに導かれます。この交わりを通して、他者に語るべき言葉も与えられていくのです。

心から生まれる言葉は、単なる口先だけの言葉として終わることなく、その人の行動に現れ、その生き方を変えていきます。キリストは、この世界において、人としての制限と労苦を実際に引き受けられることによって、神を現されました。罪の赦しについて語るだけではなく、実際に罪人と交わり、私たちの罪の重荷を担われました。私たちも、実際に人のために労苦を担い、自ら犠牲を払う生き方を通して、神のことばを現す者とされたいのです。
最後に、言葉は苦難を通して精錬され、人を豊かにする力を与えられます。神はキリストの十字架において、最も完全にみむねを表されました。
私たちも、この罪の世界において、みことばに従い、神の聖い愛に生きようとするとき、必ず試練を経験します。しかし、キリストが十字架の苦しみを通して人間に救いをもたらされたように、私たちも苦難を通して自我に死に、神に従うなかで、他者に仕える者とされます。それゆえ、試練を超えてきた人の言葉は、深みと真実に満ちているのです。
三年前に病気で天に召された主人のことを思い出します。人生の最期が近づくにつれて、主人の口から出る言葉は、よりシンプルで、正直になり、より混じり気のない光を放つようになりました。苦痛のなかでも、神の救いを感謝し、周囲の人たちへの思いやりを表してくれました。力を振り絞って残してくれた一つひとつの言葉のなかに、私は、苦難に打ち勝つ神の恵みを見ました。今もなお、それらの言葉が私を支え、生きる勇気を与えてくれます。
人を愛し、救い、造り変える神のことばをいただいている者として、みことばを喜び味わい、みことばに生かされて、他者を豊かに生かす言葉を語る者へと成長させていただけますように。