特集 忘れがちな大切なもの 共に生きる共同体として

NEW『あたたかい生命と温かいいのち』
福井生 著
B6判 114頁 定価1,000円+税

 

日本基督教団 能登川教会 主任担任教師 谷 香澄

「能登川教会は、どんな教会なのですか?」と聞かれると、私はいつも笑ってこう答えます。「いろんな意味でほかの教会とは違った教会ですよ。でも、とてもアットホームでいい教会です」。その一言に尽きます。
能登川教会は、礼拝出席者の実に九八%が止揚学園の仲間と職員が占める教会です。礼拝中もいつも誰かが何かを話していますし、職員の赤ちゃんの泣き声も響きます。とても賑やかな状態ですが、それをうるさいと感じたことは一度もありません。そこに老若男女問わず、言語も人種も超えてすべての人と寄り添い、生きる主イエスの姿を見つけたからです。
ほかの教会と違ったところとしてまず挙げられるのは、聖餐式です。『あたたかい生命と温かいいのち』の「神様にこにこ笑ってはる」の章にもあるように、能登川教会のパンと杯はとても大きいです。これは学園の仲間の方が小さい物を持ちにくいという理由から大きなものにしていると聞いたことがあります。とにかく皆うれしそうに、楽しそうに聖餐にあずかります。「イエスさまのからだ、おいしかった」と言う人もいれば、大きなグラスからゴクゴクという音を出しておいしそうに葡萄ジュースを飲む人もいます。私などは、ゴクゴクとのどが鳴る音を聞くたびについつい愉快な気分になり、笑ってしまいます。

しかし、最初からそうだったわけではありません。初めて聖餐式で笑ってしまったとき、私は思わず「しまった! 笑ってしまった!」と思い、恐る恐る教会員の顔を見ました。というのも、聖餐式というものは、静かで厳かなものでなくてはならないと思い込んでいたからです。その神聖な場で厳粛な雰囲気を私が壊してしまった。教会員はどう思っているんやろ? もしかしたら、雰囲気を壊してけしからん!と思っているのではないか? と、怖くなったのです。ですが、皆の反応は私が想像していたものとはまったく違いました。笑っていたのは、私だけではなかったのです。そこらかしこから明るい朗らかな笑い声が聞こえてきたのです。そのとき、そこにすべてを受け入れ、包み込むような大きな愛と温かさを感じ、「あぁ、笑いに満ちた聖餐式もいいものだな」と心から思いました。
能登川教会の聖餐式は、そのように喜びと笑顔にあふれる聖餐式です。私はこのように笑いに満ちる聖餐式を経験したことは今までありませんでした。聖餐式というものはイエスのからだと血にあずかり、十字架上での主イエスの死を想い起こすと同時に、いろんな違いを取り除いて互いに手を繋ぎ、共に生きる共同体としての喜びと豊かさを実感するときでもあるということに気づかされた瞬間でもありました。
知能に重い障がいをもつ仲間たちと過ごすようになってから、本当に多くのことに気づかされ、時に自分の傲慢さに打ちのめされるようなこともありました。
ある日のことです。私は自分が関わっている差別問題のことで憤りを覚えつつ、教会や日本基督教団としてこの問題にどのように取り組んでいくのかと疑問に思っていました。よっぽど険しい顔をしていたのでしょう。礼拝後、園生の克美さんが私のところに来て、にっこりと笑いながらこう言ったのです。「先生、何怒ってるん? 笑顔や、笑顔」。
彼女のその言葉は、私の胸にぐさっと深く突き刺さりました。彼女は私の様子がいつもと違っていたので心配してくれたのでしょうが、私には彼女の言葉を通して「なぁ、先生。あんた牧師やろ? 怒ったらあかん。赦さなあかんで」と神様に言われたように思えて仕方がなかったからです。そして、それと同時に、「あぁ、この人も理不尽な扱いを受けて生きてきたのに、人を赦す愛を持っている。私も人を赦せる広い心を持たないといけないな」と反省させられたものです。
私たちはどうしても人前では格好をつけてしまい、難しい言葉を使ったり、言葉を飾ってしまう傾向があります。ですが、かえってそれが物事の本質を見えにくくしてしまっているように思えます。

知能に重い障がいをもつ仲間たちが口にする言葉。それは本当にたった一言なのですが、その一言は実に物事の本質を突いています。そして、私たちはその一言にハッとさせられ、正に目から鱗のようなものが落ちたような感覚に陥るのです。飾り立てられた言葉によって見えにくくなってしまった真実を時折思い起こさせてくれる、そんな言葉の力強さを仲間たちは持っています。
現代の競争社会を生き抜く上で私たちがどうしても忘れがちな大切なものを思い起こすことができるところ。そして、老いも若きも集まり、主に交わる共同体として共に喜びも悲しみも分かち合って生きている場所。それが止揚学園であり、能登川教会であります。