牧師たちの信仰ノート 第1回 静まりに導かれて(みくに・ひとやすみ以前)

高橋伸多(たかはし・のぶかず)
日本同盟基督教団教師、みくに・ひとやすみ代表。

私は、一九五〇年、大阪で生まれました。キリスト教との出会いは、幼少期に大阪キリスト教短大付属幼稚園に一年あまり通っていたときに遡ります。しかし十九歳のクリスマスにキリストを信じるまで、その出会いには気づかずにいました。無自覚であっても、主は私の心に働き続けていてくださったのだと思います。
信じて一番うれしかったのは、私の心から孤独感や虚無感が消え、神様に愛されているという感覚を得られたことでした。うれしくて、日曜日は朝から晩まで教会に入り浸り、週三回開かれていた早天祈祷会には皆勤で通い、大学のキャンパスでは聖書研究会の活動に忙しくという日々を送っていました。
やがて献身の思いが与えられて神学校へ。三年間の学びの後、母教会に赴任し開拓伝道に遣わされました。やがて結婚、家庭を持ち、妻と二人三脚の歩み。子どもも二人与えられて、毎日夕食後に家庭礼拝をするようになりました。教会は名古屋、大阪・枚方と、二つの教会で計三十二年間牧師として奉仕しました。十年前、牧会の奉仕にピリオドを打ち、妻の実家にUターン。義母の世話をしながら、“みくに・ひとやすみ”と名づけた、休息と静まりの家を始めました。

私は今年で六十八歳になりましたが、五十歳を過ぎたころ、主の前に静まる集いに参加するようになりました。スイスで開かれた二週間にわたる人生振り返りセミナーにも牧会時代に二度参加し、そういう中で、自分という人間の正体が見えてきました。
何事にも自信がなく、人の目を気にし、それでいて周囲のあり方には従いたくない、自分は自分でいたい、そんな思いを抱き続けてきた。その底には何があるのか。そのようなことが次第にわかってきたのです。そういう自分の姿とともに、幼少期から主がそんな自分に寄り添うように導き続けてきてくださったことにも気がつき、深い慰めと感謝な思いが与えられたことでした。

この経験が深まるにつれ、この自分がこのままで主に愛され、受け入れられているという確信をもつようになりました。これが自信となり、人前でもありのままの自分でいられるようになってきました。苦労してきた礼拝説教の準備も、心にあふれてくる主の恵みをことばにするという作業となり、週の前半には次の主日に語る内容が与えられているというふうで、説教壇に立つのが楽しみになりました。
こういう説教者の変化は会衆のみなさんにも届いていたようで、日曜日を楽しみに集まってくる方々が徐々に増えていきました。伝道活動と呼べることをほとんどしていないのに、新しい方々との出会いが与えられるという不思議な体験でした。以前は月一で伝道礼拝を行っていましたが、毎週が伝道礼拝のようになってきた、そんな感じでした。
人が神の恵みを受けて、心が穏やかで喜びにあふれていると、他の人たちもそのことに気がつき、近づいてくる。宣教は人を追いかける働きではなく、神の恵みが人の心を満たし、それがあふれ出た結果なのだ。そう教えられたのです。

「霊的成長の最大の妨げとなるのは、神への恐れである(罰を与えられるのではないかという恐れ)」。私の尊敬する霊的指導者、ヘンリ・ナウエン、ブラザー・ロジェなどが異口同音に語っています。主の前に静まり、ありのままの自分が愛されているとわかると、人は変わってゆくことができます。そうでないと、忙しい活動に身を投じ、自分の価値を証明しようと躍起になる。それが以前の自分の姿だったと思います。今はこのままの自分が好きです。主が好きだと言ってくださるのですから、否定するのは主に失礼です。
今回はこの辺で筆をおきます。次回は、静まりから生まれたものについてお話しします。