特集 登場人物で読むと聖書はわかりやすい

名前をよく聞く聖書の人物たちを、私たちはどれほど理解しているだろうか―その人間性を深く知るとき、聖書が語る福音が自分のこととしてより鮮明に見えてくる。


『登場人物で読むと
聖書はわかりやすい』
フォレスト編集部 編
A5判 224頁 定価1,500円+税

その人生の光と影に触れて
日本伝道福音教団 鶴瀬恵みキリスト教会 牧師 堀 肇

過去の物語や人物であっても、それらに対して真剣に向き合うことによって事物の本質がより深く分かってくることがあります。私は「百万人の福音」と「クリスチャン新聞・福音版」に聖書の人物について書いたエッセイを連載してきました。十年余に及ぶ長い執筆で、百人以上を取り上げましたが、この希有な経験を通して改めて聖書に感動しました。
それは聖書に登場する人たちは、粉飾されたり美化されたりすることがなく、ありのままの姿で描かれていること、そこに驚きとともに迫力を感じたのです。彼らの神との関係を真剣に読むと、抽象的な議論を寄せつけない世界に引き込まれていくから不思議です。一人の人物に向き合って読んでいくと、聖書が語ろうとしていることが分かってくるということでしょうか。
聖書物語の読み聞かせ
最初に、このことをクリスチャンの母に育てられた私の子ども時代を振り返ることからお話ししたいと思います。小学生の頃、母は寝る前に私と弟たちの枕元でよく聖書の話をしてくれました。大抵は旧約聖書に登場する著名な人物の物語。アブラハムやヨセフの物語などは何度聞かされたかわかりません。エステルやダニエルの話などは、わくわくと幼い想像力をかき立てられながら聞いたことをよく覚えています。旧約の人物伝はほぼ長編ですから、「続きは明日!」というような終わり方になります。懐かしくも楽しい思い出です。
母のこの半ば習慣に近い聖書の読み聞かせは、信仰継承といった気負ったものではなく、そうするのが自分も楽しいからするといったようなものに感じられました。今にして思えば、登場人物の言葉や行動を通して人としての本来のあり方や生き方のようなものを子どもなりに学んでいった気がします。頭からというよりも体全体で学ぶという聖書教育でした。
この母の影響があってか、私は子どもたちが幼い頃、家庭礼拝で聖書絵本や関連する本などをよく読んで聞かせました。それらはたいてい人物中心に物語が綴られていますから関心や興味を持続させることができます。何よりも読み手の大人と聞き手の子どもが喜びや悲しみの世界を共有でき、想像力の翼も広げられ、心が共に潤されるから不思議です。
聖書通読や連続説教を通して
この聖書の人物を学ぶことにおいて、最も恩恵を受けている人たちは、教会学校(日曜学校)の教師ではないかと思います。特にカリキュラムが旧約聖書ともなれば、その歴史は人物中心に綴られ、しかも多くの場合、人間としてさまざまな問題に直面しながらの人生ですから読者は誰であれ、聖書に引き込まれていきます。教師は教える関係上どうしても繰り返し学びますから、他の方々より登場人物を通して、聖書をより深く味わうことにもなります。これは教会学校教師の特権であり恵みと言ってよいでしょう。
これはまた牧師にとっても同じであって、連続講解説教ともなれば、当然聖書の人物を次々と取り上げていくことになります。ふだんそれほど語られない人物についても触れることになりますから、新しい発見や気づきが与えられ聖書は面白くなってもきます。
とはいえ、私の経験から言うと、この連続講解説教では、一度に登場人物について言及されている記事のすべてについて触れるわけではありませんから、人物の全体像をお話しすることは難しくなります。とりわけ礼拝に連続して出席できない方々にとって、出席したときに取り上げられた人物の素晴らしい側面が語られても、それは部分ですから人物全体はよく分からないままになってしまうということも起こりうるわけです。
たとえばアブラハムがカルデアのウルを行き先を知らないで信仰によって旅立った物語は「信仰の父」をイメージさせる物語ですが、その後の歩みを見ると、信仰の人とは言いがたい行状が次々と露呈し、妻を妹と偽ったり、また「義」と認められた後にも不信仰とも思える行動をしています。アブラハムに限らず人物を学ぶ場合、こういうところも含めて学んでいく必要があるのです。
全体像を知ること
さて、そうなると聖書の人物を正確に知るには、その人物について記載されている箇所を細部にわたって調べることが必要になってきます。いつどこで何をしたかという行動だけでなく、聖書に書かれているなら、その気質や性格特性など、人間性に関わることなども知る必要があります。そうなれば自ずと聖書のある章句の一コマを切り取って「この人は〇〇だ」などとは言えなくなります。その意味で聖書の人物をよく知るには通読や連続説教からだけではなく、一人の人物を集中して学ぶことが必要になります。
私は百人余の人物をそうした点を念頭において書くことにより、人間に対する洞察を新たにしました。それはどんな偉大な指導者であっても、また揺るがない信仰をもっているように見えても、その人生には光と影があり、強さと弱さの中を揺れながら歩んでいるということです。
あのイスラエルの偉大な指導者モーモも重荷に耐え兼ね「どうか私を殺してください。これ以上私を苦しめないでください」と語り、預言者の代表者エリヤもカルメル山での勝利の後、「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください」と死を願うほど落ち込んでいます。大使徒パウロも伝道旅行の途上、「全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました」と不安な心情を手紙に書いています。
人物の全体像を明らかにするには、このような部分も見落とさないことです。それによって聖書の人物と私たちとの距離が縮まる体験をします。何よりも人間の物語が人間の世界にとどまらず、その生涯が時に闇の中に置かれることがあっても、それが神への祈りと信頼の旅に向かう物語であることに気づくとき、聖書は神のみ旨を明らかにするものであるということがわかってきます。これが聖書の人物を学ぶことによって与えられる最大の恵みと言ってよいでしょう。

終わりに聖書の読み方について一言。聖書の人物を時間をかけてよく読み、そこから神の語りかけを聞くべく黙想の時を充実させていくとき、聖書の教えを観念的に理解することから守られます。
例えば罪について知りたいなら組織神学や聖書教理の本から論理的、体系的に学ぶことができます。それも必要なことですが、一人の人間の罪の物語に向き合うとき、それは自分の問題でもあることが分かり、身に染みて自分の「罪深さ」を知るきっかけともなります。すると、どうしても救っていただきたいという願いが起こされ、十字架の下に行かざるを得なくなるのです。
信仰に生きた一人の人間の全体に対峙することによって、聖書の教えが抽象的、観念的なものでなく、心とたましいを、生きた神に向かわせるものであることが分かってきます。これは人間と神がたましいのレベルで分かることと言い換えてもよいと思います。