私はこう読んだ―『聖書 新改訳2017』を手にして ことばのなかのことば

第8回評者 野田 秀
一九三二年生まれ。東北大学法学部、インマヌエル聖宣神学院卒業。東京フリーメソジスト桜ヶ丘教会協力牧師。

 

ことばが壊されてしまった時代

ある人が現代を「ことばが壊されてしまった時代」であると言いました。
ことばが溢れているのに、重みのない空疎なことばが際限なくやかましく流れる、そんな時代に私たちは生きています。
国会で国の行く末を論じる政治家たちのことばの危うさは、この国のそんな事情を代表するかのようです。子どもは擬音が好きだと何かで読みましたが、彼らは日々テレビやスマホの中に殺人や暴力を目撃し、目と耳からむなしいことばを吸収して育っているのです。陰湿ないじめや考えられないような犯罪は、みなそうした土壌に生まれ育っていくのです。私たちはこうした現実に恐れおののかなければなりません。
二十年ほど前に、アメリカで『本が死ぬところ暴力が生まれる―電子メディア時代における人間性の崩壊』(バリー・サンダース、新曜社)という本が出版されました。それは書名が表すように、ことばが壊されてしまったIT社会の危機を指摘しているものでしたが、現在の日本がまさにその状態に陥っています。
そういう危機的な時代に『聖書 新改訳2017』は誕生しました。ことばが重みや深みを失っているその大舞台に、神さまがこの聖書を送り出してくださった意味は小さいものではありません。翻訳、編集、その他の分野で尽力されたすべての方々に心から感謝いたします。

聖書は難しい本である

私は一読者として、日本語としての「読みやすさ」に関心をもって読んでいます。なぜ読みやすさにとらわれるかと言えば、それは、聖書は決して分かりやすい本であるとは思わないからです。
六十五年前に私は大学生のキャンプでイエス・キリストを信じました。最後の夜に救われた人たちが証しをしました。聖書は神のことばであると聞いた私は、その時、パウロのことばと神のことばの区別すらつかずに話すという失敗をしました。よく分からなかったからです。その頃使われていたのは文語訳聖書でした。
文語訳聖書の難しさの一例を挙げてみましょう。
「エフライムは?言をもてイスラエルの家は詐偽をもて我を囲めりユダは神と信ある聖者とに属きみつかずみ漂蕩へをれり」(ホセア11・12)
どれだけの人が、正しくこの意味を読み取ることができるものでしょうか。当時はこんな難しいものを読んでいたのです。
本来、聖書は、目に見えない神と信仰の世界を扱っているのですから易しいはずはありません。内容が難しいものが、ことばにおいても難しければ、それを理解することは簡単ではありません。聖書が難しい内容のものであるという前提に立てば、少なくとも文章の上で分かりやすいことが期待されます。
詩篇42篇4節を例に挙げてみましょう。
第三版では「私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています」となっており、唐突に出て来る「あの事」が何を指すのかは、その後の説明を読むまで分かりません。「私の前で心を注ぎ出す」という表現もやや不思議な表現です。しかし、新しい訳では「私は自分のうちで思い起こし 私のたましいを注ぎ出しています」となっており、表現がすっきりして、後の説明に自然につながります。

本の中の本 ことばの中のことば

聖書は、本の中の本、ことばの中のことばです。
そのことばが、分かりやすいとはどういうことでしょうか。
まず、頭で理解しやすい文章であること、心にすっと入る明快な表現であること、そしてたましいを揺さぶる力あるものであることです。幸い『新改訳2017』は、日本語としても整い、理解しやすい表現へと進化しています。
聖書は私にとって今でも難しい本です。難しいけれどもこれに優る本はありません。そして、この新しい翻訳による「すばらしいことばで 私の心は沸き立っている」(詩篇45・1)のです。