特集 こころの傍らに立つ

「働くひきこもり」を自称するユニークな精神科医のエッセイが面白い。『百万人の福音』の人気連載「えぜる診療所ひきこもり院長のつれづれ日記」が大幅加筆され、一冊の本にまとめられた。注目の著者に執筆の裏話を聞いた。

7月発売
こころの「雑談外来」
本日も診療中。
―ひきこもり院長のつれづれ日記
芳賀真理子 著
208頁 B6変型版 1,300円+税
(装丁・イラスト 桂川潤)

『こころの「雑談外来」本日も診療中。』著者インタビュー
駒込えぜる診療所院長 芳賀真理子

Q 泣き笑いしながら読みました。自称「働くひきこもり」の芳賀先生が、ああでもない、こうでもないと、大真面目に迷走している内面が正直に書かれていますね。

わたくしは中学くらいの時にはすでに、「真理ちゃんは暗い」と同級生に距離を置かれ、就職したのちも上司から「そんな考え方だとうつ病になる」と心配され、長年悲観的思考ど真ん中で生きてきております。物心ついてからずっとこのかた、自分がしてきたことにはいちいち不全感がつきまとい、人の言う冗談を真に受けては腹を立て、そういう自分の面倒臭い性質はなんなんだろう、と思っていました。年月経てど変わりなく、あれこれ頭の中でぐるぐる巡らせていること自体が、我ながら滑稽に感じられてきたところを文章にしてまとめたのが、今回の本なのかもしれません。

Q 一人称は「拙者」なのですね。癖になりそうな「拙者節」はどうやって生まれたのでしょう。

診療所を開業した当初、種々の準備不足から来院患者数ゼロの日がしばらく続いていたため、診療所の存在をとにかく早く多くの方に知っていただかねばと思い、「院長ブログ」を始めました。なるべく頻繁にブログを更新しようと思うのですが、どうにも文章が書きづらいのです。なぜなんだとしばらく考えていたところ、どうやら自分の頭の中で巡っている言葉で書いていないからではないか? と思い至ったのでした。自分の頭の中で巡っている言葉というのは、通常の話し言葉でも書き言葉でもなく、どこの方言だかいつの時代だか「拙者、よくわからんかったとです」っちゅうような、変な言葉なわけです。そこで、思い切ってブログで一人称を「拙者」にして書き方を変えてみたところ、なんと実にするすると、文章が書きやすくなったのでした。それが「拙者節」の始まりです。

Q 雑誌連載終了時は、読者の「拙者ロス」が心配されたとか。読者からの手紙にホロリとしたエピードも書かれています。

ぶちぶちと一人雑談をしていたような連載でしたが、連載後半年ほど経ったところで、「『百万人の福音』を自宅で読んで一人で大笑い」「ひきこもり院長に神様からの祝福がいっぱいありますように」という、温かいお手紙をいただいたことがあり、朝からほくほくと音をたてて、 心が動き出すような気持ちになったことがあります。連載中は刑務所入所中の方からのお手紙も複数あり、種々の制限がある中で、刑務所に『百万人の福音』を届けておられる方がいるという事実に、しみじみ思いを巡らせておりました。

Q 診療所の名前にある「えぜる」(助け手)は、芳賀先生が目指す医師像をあらわしているのでしょうか。

ええ、まあその。医業という専門職であると同時に、人として真に助け合い支え合うこと、共に生きていくという意味を込めて、また最終的に「主がここまで助けてくださった」記念として置かれた診療所であることを思い描き、「えぜる」 という名をもつ診療所にしたのでした。
が、この理想像、わたくしには到底到達不可能、無理なんです。というのも、自分は安全なところにいて、なるべく巻き込まれない程度で人を助け支え生きていこうともがく我が身を、日々の診療の中で自覚するからです。でも「えぜる」とは、自分の中で失うもののことや傷つくことを顧みることなく、真に相手を思い、支え合うことを指向しております。こういう矛盾の中で、日々右往左往しております。その一方で、人を愛する神が、愛するがゆえに傷を負うのです。その神を指向する診療所なのです。
多分、これらのことをそのまま真っ直ぐ受け入れていこうとする先は最終的に、「主がここまで助けてくださった」記念として置かれた診療所になるんだろうと、ぼんやり思うのです。

Q 本書でも紹介される診療所内聖書勉強会や診察室での「雑談外来」はユニークです。先生ならではの絶妙な距離感・空気感が伝わってきます。

自分自身が人との、そして自分との距離感を測りかねつつ、ひきこもってはまた行き場をなくす、という経緯もあるので、自他の微妙な距離感には先天的か後天的かはわかりませんが、どうしようもない反射的な要素が関わっていると思うのです。さみしいもの同士の敏感さと鈍感さとが作り出す距離感や空気感は、時としてヒリヒリするような痛みや緊張感を伴うことがありますが、なんともいえない慰めを覚えるような気もします。

Q 第4章の「鶯色のスケッチブック」のくだりは泣けました。逃避ぐせのあった先生が、覚悟を決めて夢と決別する場面です。神さまとの関係性を感じながら読みましたが。

今も当時も自分の心境としては、「覚悟を決めて夢と決別する」というより、「無理やり決別させられた」という被害感が強いのですが(笑)、この部分は結果的に自分の全人格的な部分において、大事な転換点になったのではないかと思う出来事でした。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」(ヘブル4・12)という聖句を体験的に学ぶ機会となった気がします。そしてまた、神が「嘆きを踊りに変えてくださる」という詩篇の言葉を、「神からの約束」として受けとめられるようにもなりました。

Q 読者へのメッセージをお願いします。

どなたも「手を抜いて生きてきた」わけではない、はずです。それでも、自分の癖のある考え方や行動様式の中で、またどうしようもない突発的な要素で、自分なりに努力・工夫してきたのに、どうにもうまくいかない、行きどまりのように感じる時もあります。踏ん張らないといけない時や自分が変わっていかないとどうしようもない時もありますが、「逃げたかて、ええんやないか」と思うこともあります。逃げた先で、自分の中の何かが変えられ、健康的に踏ん張れる物事との出会いもあるのだと思うのです。
逃避癖のあるわたくしがこんなことを言うと説得力がないかもしれませんが、それでも「逃げたかて、ええんやないか」とぼやく拙書に目を通していただき、ああでもないこうでもないとやっているうちに、なんとなく気が緩んでいき、二者択一で行き詰まっている場合には、第三の選択肢を見出す助けになるといいなと思います。