『歎異抄』と福音 第十五回 倫理の内面化はおこったのか

『歎異抄』と福音

第十五回 倫理の内面化はおこったのか

難しい行はいらないとしつつ、自身は行を堅持した法然。信のみとしながら、極悪人には良き師について悔い改める行を求めた親鸞。信のみに徹しようとする者が、それではどう生きるのか。この連載を続ける中で、そんな問いを抱き続けている。『歎異抄』十三章には、善悪の行いについて、親鸞と唯円師弟の興味深いやり取りが記されている。
◇「よきこゝろのをこるも、宿業のもよほすゆへなり。悪事のおもはれせらるゝも、悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには、卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき。」(第十三章)|良い心が起こるのも悪事をたくらむのも、過去の行いがもたらすのです。故親鸞聖人は、兎の毛や羊の毛の先についた塵ほどの罪も、過去の行いの結果でないものはないと知るべきだと仰せになりました。
良い心も悪しき罪も宿業がもたらすのだと親鸞は語る。業とはサンスクリットでカルマと言い、なんらかの結果が付随する行いを意味する。その付随物がやがて次の行いを生み出していくと考えるのだ。現在の良い行いにしても、悪い行いにしても、過去に積み重ねられた業の結果であると親鸞は唯円に語った。
私の言うことを必ずきくかと親鸞。はい、どんなことでもと唯円。では、人を千人殺してもらいたい、そうすれば極楽に行けると親鸞。お言葉ではありますが、とても一人の人も殺せませんと唯円。そこで親鸞は説く。
◇「わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」(第十三章)|私の心が良いから殺さないのではありません。また人を傷つけまいと思っても、百人千人を殺すこともあるのです。
善行であれ悪行であれ、過去の行いがもたらすのだということになる。これでは、どう生きるかを問う倫理は意味をなさなくなる。この件で「くすりあればとて毒をこのむべからず|良薬があるからと言って毒を好んで悪行に走ってはいけない」と、親鸞が手紙で戒めていることが紹介されている。赦されるから何をやってもいいのだと、親鸞が思っていたわけではもちろんない。問題は、阿弥陀の誓願を信じた人が、それからどう生きるかの論理を、親鸞は示していないということなのだ。

評論家の加藤周一(一九一九~二〇〇八)は、親鸞論を書いており、「これでは宿命論である」と批判している。善悪が宿業で決まるということは、宿命ですべてが決まるということであり、自由意志に基づいてどう生きるかに展開しないというのである。親鸞は、道徳的な善悪を超えた超越的な思想をみごとにもたらした、と加藤は高く評価している。その上で、以下のように論じる。
「しかしそれだけでは倫理の内面化はおこらない。それがおこるためには、超越的絶対者に加えるに自由意志があり、両者の緊張関係において価値がきまらなければならない。それは親鸞のやらなかったことである。彼の体系には業報の強調があって、自由意志の要素が欠けていた。他力があって、自力の根拠が検討されていない。宗教的な現世否定の論理があっても、人間的な世界での倫理の内面化が行われなかったのは、その意味で、当然であろう。」(加藤周一「親鸞」『日本文化研究 第8巻』一九六〇年)
加藤周一は医者であり、生涯にわたり世界の人事百般を縦横に論じたが、キリスト教に対しては、「プラトニック・ラブ」という表現をされている。晩年に母と妹が困るだろうからとカトリックの洗礼を受けた。洗礼名はルカである。親友であった福永武彦(一九一八~一九七九)が、明確な告白をして洗礼を受けたのとは対照的である。
それにしても加藤の親鸞批判は、キリスト教サイドからのものであると私には思える。親鸞の論理からは「倫理の内面化はおこらない」と加藤は言っている。これは神学における聖化のことだろう。キリストの贖いを信じて、義認された者は、必ずキリストに似せられる聖化に歩みゆくのであり、義認と聖化を分けることはできない。
罪が赦されるのは、キリストのいのちが代価とされてのことであって、義は一度たりともゆるがせにされていない。だから、義とされた者が良い行いに押し出されるのは当然なのだ。救われるためではなく、おのずとキリストのように生きたいと求めるのである。その経緯は「倫理の内面化がおこる」と加藤が表現しているものではないか。
「超越的絶対者に加えるに自由意志があり、両者の緊張関係において価値がきまらなければならない」とは、神の前のキリスト者の生き方そのものだと言ってよいだろう。ただ、キリスト者日本人がそのように生き得ているかは、よくよく問われなければならない。