私はこう読んだ――『聖書 新改訳2017』を手にして

第9回評者 長尾 優
グラフィック・デザイナー。ロゴス・デザイン代表。

問いとしての聖書

「愛が生まれて そして 息絶えるまで 時間はどのくらい?」(「愛すること」より)と辛島美登里は歌い、森山良子は「ねえ いちばん愛した人と 結ばれないのは なぜ?」(「アパート」より)と歌で問いかけます。
ギリシアの王弥蘭はインドの高僧那先に「何ゆえ人には長寿の者と短命な者があるのか。富める者と貧しい者、端正な者と醜い者、聡明な者と愚か者とが。何故人は生まれながらにかくも異なるのか」と問います。賢者は「木々も甘い実をならせるのがあれば、苦い実、酸っぱい実をならせるものもある」と答えます。古来「ミリンダ王の問い」として知られるこの「何故」を機縁とし、これを自身と、人類すべての根源的な問いへと内面化させることで、哲学者九鬼周造は名著『偶然性の問題』を著しました。
このような問いは人間の本質に肉迫するものであるが故に何処まで行ってもその正解がない、にもかかわらず人はそれを問わずにはいられない、ということがその特質です。
私はなぜこの世に生まれてきたのか。地上の生に限りがあるのは何ゆえか。なぜあの人が死んで私が生き残ったのか。地上にある者の生と天の意思との間になんらかの相関関係はあるのか。どうすることもできない運命というものは存在するのか。善人が滅びても悪が裁かれないのはどうしてか……。聖書もまた、「今日あっても明日は炉に投げ込まれる」いのちを背負って生きる人々の心に湧き上がる無限の問いを契機として生まれ出た書物ではないかと私は考えています。こう書くと「神の言である聖書と俗世の歌謡や本とを同日の談で論ずる気か」と厳しいお叱りを受けそうです。聖書ではどうなっているのでしょうか。

ヨブは「なぜ私は、胎内で死ななかったのか。胎を出たとき、息絶えなかったのか。……なぜ、苦悩する者に光が、心の痛んだ者に命が与えられるのか」(ヨブ3・11、20)と問わず語りに訴えました。エレミヤは「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようともしないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか」(エレミヤ15・18)と〈主〉と呼ばれる存在者に向かって嘆きます。十字架上のイエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と大声で叫んだ、と記されています(マタイ27・46)。これらの問いに天からの明確な回答は何も示されていません。答えのようなものがあったとしても、それは質問への誠実な応答ではなく、一方的な顕現であったり、嘆く者の声を封じ込める威圧の力として描かれます。しかしこれは神という存在者を、聞く耳を持たない暴君だと言っているわけではないのです。これは、人生の問いは、それもその人の実存そのものにかかわるような、たましいの深奥から湧き上がってくるような問いは問いのまま、無垢のまま残るものであって、私たちはそのようにしてこの不条理の生をそれでも生き抜いてきたのだ、ということの文学的表現なのです。古代ユダヤ文献としての聖書の価値はそれをそのままに勇気をもって記した点にあると思います。

しかし人はそれでは満足できない。回答が欲しいし、それがまごうことなき解答でもあってほしい。混乱した事態を快刀乱麻に収拾する、その快刀でも……。そこから聖書を、規範、道筋、真理、ドグマ、さらには普遍的法則にまで高めるような読み方が主流をなしてきました。
そうではなく、聖書は、問いかける者、問いでありつづける者の答えの見えないつらさが否定されないで、それでも生きていけるための砦、そういう者にとって思索の広場としての役割を静かに保ってきたと私は考えるのです。この、問いに留まることに満足できないで、それを唯一の規準、無二の正統という読みへと力づくで舵を切ってきたところに、キリスト教二千年の歴史に見られる、けっして看過することのできない暴力と支配もまた必然の帰結として生み出されてきたのではなかったでしょうか。
この点では、『聖書 新改訳2017』の2017、そのちょうど五百年前の宗教改革を牽引したルター、カルヴァンも例外ではありませんでした。聖書とそのプロテスタント的釈義を唯一の正統とする熱情のゆえに、ルターはユダヤ人排斥を声高に訴える惨憺たる著作を残し、三位一体論に疑義を呈した自由思想家ミカエル・セルヴェトスはカルヴァンの手によって火刑台へと送られたのでした。
2017が1517の単なる継承、無批判な焼き直しであっていいはずがありません。このたびの聖書の装幀にかかわらせていただいた者として、私はその意味でも2017という数字に込められている〈アップデート〉(今日化すること)の責任を痛感しているのです。