『歎異抄』と福音 第十七回 親鸞は弟子の一人も持ちません

大和昌平

茨城県笠間市に稲田御坊(稲田善坊西念寺)を訪ねた。親鸞は新潟に流刑された後、稲田を中心に約二十年間布教した。弟子を育て、念仏道場を生み出し、主著『教行信証』の執筆に取り組んだ壮年時代だ。一説によると、親鸞を師と仰いだ弟子は三千五百人ほどいたようだ。しかし、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ|親鸞は弟子の一人も持ちません」と言うのである。『歎異抄』第六章に、弟子など一人もいないとする親鸞の気迫に満ちた言葉を聞こう。

◇「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏をまふさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、弥陀の御もよほしにあづかて、念仏まふしさふらふひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒涼のことなり。」(第六章)|念仏に専念するお仲間の中で、これは私の弟子だとか、他人の弟子だとかと言い争うのは、もってのほかのことです。親鸞は弟子の一人も持ちません。その訳は、私の取り計らいによって人に念仏を申させたのであればこそ、私の弟子だとも言えるでしょう。しかし、阿弥陀仏の促しに与って念仏を称える人を、私の弟子だなどと呼ぶのはとんでもないことであります。
念仏は阿弥陀仏の促しを受けて行えるものだ。阿弥陀仏への信心さえも阿弥陀仏から来るもので、人のはからいで行うものではないというのである。かくまでに阿弥陀仏は親鸞にとって絶対的なものであり、その前には私一人で歩むのみだと考えていたようだ。だから、念仏をする者には師も弟子もなく、この私に弟子などは一人もいないということになる。浄土真宗では、門徒同士が「御同朋・御同行」と呼び合う伝統が今に伝えられる。
聖書は「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12・3)と述べている。だから、私たちは「イエスによって与えられる信仰」(使徒3・16)と我が信仰を受け止める。そこから、皆が兄弟だとして牧師を立てない教団もある。親鸞の同朋主義と類似するものがある。
内村鑑三は「弟子を持つの不幸」なる一文を書いている。「余は諸君の友人であって師ではない。余の宗教に在りては師は唯一人キリストである。我等は皆な兄弟である。」弟子に去られる苦汁をなめた内村鑑三は『聖書之研究』による単独の執筆活動に我が道を見いだしていった。
師の教えを受けて共に歩むけれども、信仰者は一人歩まねばならない。絶対者なる神の前に「単独者」であることを訴えた、キルケゴールの宗教的実存とも響き合う。近代日本人に親鸞が受ける理由の一端がここにあるだろう。

第六章後半は、念仏道場間で弟子を奪い合う下世話な話に展開する。
◇「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんとまふすにや、かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと、云々。」(第六章)|付くべき縁があれば共に歩み、離れるべき縁があれば離れゆくものであるのを、「師に背いて、他の人に付き従って念仏などしようものなら、往生することなどできない」などと言うことはできません。阿弥陀仏から賜った信心を我が物顔に取り返そうとするなど、返す返すもあってはならないことです。本願他力の道理にかなうならば、仏の恩を知り、また師の恩をも知るはずであります。
念仏道場同士で弟子の数を競い合い、弟子が他の道場に移動しようものなら、「弟子どろぼう」だと叫び、「そんな輩は極楽には行けない」とまで罵る始末であったようだ。腰を据えて伝道したコリント教会にパウロが宛てた手紙で真っ先に扱われる実際問題は、仲間割れだった。
「私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。あなたがたはそれぞれ、『私はパウロにつく」『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』と言っているとのことです。」(Ⅰコリント1・11、12)
弟子たちの確執に頭を悩ますパウロの姿も重ねつつ、「弟子どろぼう」の顛末、他山の石としたい。第六章では、親鸞にとっての阿弥陀仏の絶対性のゆえに、キリスト教における絶対者と個の関係に肉薄してくるものがあった。「自然」は本願他力を意味し、親鸞が最後に到達する境地だが、改めて正面から向かい合おうと思う。