リレー連載 ことばのちから 最終回 ことばが世界をつくる

同志社大学社会学部教授

木原活信

今日、「ことば」そのものがもつ意味が薄くなってきているのではないでしょうか。そんななか、「いのちのことば」という名を冠する雑誌としても、その「ちから」について改めてご一緒に考えていきたいと思います。最終回は、同志社大学社会学部教授の木原活信先生です。

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」(ヨハネ1・3)
「ことばが世界をつくる」、これは近年の言語哲学の世界で「発見」され、その重要性がしばしば語られるようになった一つの真理である。つまり、世界がことばをつくるのではない。そもそも、それよりはるか昔、「ことば(ロゴス)は人となった」というとおり、「ことばが世界をつくる」という真理を聖書は語り続けていた。しかし今、実感としてことばは世界をつくるどころか、それ自体が相当に失われているように感じられる。そして、人はそれぞれ自らの見える世界(現実)のみが絶対に正しいのだと主張してしまい、皮肉にも「ことば」で争うまでになっている。

恥ずかしい卑近な例であるが、今から二十年以上も前のことである。ある休日のこと。三歳ぐらいになった息子を連れて新幹線に乗ったときのことである。当時、息子は、新幹線が大好きで、明けても暮れても買ってやったおもちゃの新幹線に跨って遊んでいた。絵本も新幹線。テレビも新幹線が出てくると興奮していた。それで、きっと喜ぶだろうと私は親心で「本物」の新幹線にわざわざ乗せてやったのである。以下はそのときの会話を再現したものである。

父親(自慢げに)「さあ。新幹線だよ」
子(辺りを見回しながら)「……」
父親「新幹線のひかり号だよ」
子(不思議そうに)「しんかんせんのひかりごう?」
父親「そうだよ。おまえの大好きなやつだよ」
子「ちがうよ。はやく、しんかんせんのろうよ」
父親(驚いたように)「今、乗っているじゃないか」
子(真剣に)「これじゃないよ。はやくしんかんせんのろうよ」
父親(不機嫌に)「何を言ってるんだよ。これが新幹線なんだよ」
子「ちがうよ。これじゃないよ。はやくしんかんせんのりたい」
父親(困惑して)「これが本当の新幹線って言ってるじゃないか。おまえが言うからわざわざ乗せてやったのに。何をわけのわからんこと言ってんだ」
子(泣きながら)「これ、しんかんせんじゃないよ! しんかんせんのりたいよ!」

傍らから見ると、微笑ましい会話だが、奇妙なやりとりでもある。たまの休日を子どものために「本当の」の新幹線に乗せてやろうと意気込んだ父親の親心は見事に空回り。息子にとっての「本当」の新幹線(しんかんせん)は、どうやら、おもちゃか、絵本に載っていたものらしく、もっと小さく、自分が手に取って運転できそうなものを指していたのであろう。「本当」の新幹線をめぐって親子が真っ向から対立しているが、まさかどちらが「本当」なのかを議論して、親子で対決するわけにもいくまい。親が説得したとしても、幼児にとって、「しんかんせん」という「本当」「現実」(reality)は、彼の世界ではおもちゃの新幹線のことであり、仮に親の説明を理解できたとしても、親のいう「本当」の新幹線を楽しむということはできそうにない。
このようなことばのズレは、日常生活にもしばしば見られる。特に私が専門とする社会福祉では、認知症、知的障害、妄想や幻覚に苦しむ精神障害の方々の支援をするが、福祉の現場でのコミュニケーションは、上記のような会話はむしろ一般的会話であるといってもいい。その際、よくある失敗例として、「本当」「現実」といわれる確固たる「世界」が支援する側にあって、その「現実」にズレが生じたとき、支援する側は必死になって説得するか、そうでなくても自分の「現実」の「世界」へ支援される側を誘導してしまうことがある。その際、一生懸命になればなるほど、自分以外のもう一つの「現実」や「世界」があるとは認めず、結果的に、不毛な対立が生まれてしまう。上記の会話のように、互いが、現実を主張し合えば、その「現実」をめぐって衝突してしまい、結局、「対話」が不成立になって、ことばが虚しいものとなってしまう。そして、ますますことばのもつ重みは失われいくことになる。改めて、今、ことばのもつ重み、それが失われかけていることについて考えてみてはどうだろうか。
「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります」(へブル11・3)