私はこう読んだ―『新改訳2017』を手にして

第11回評者
廣瀬薫
新潟県出身。東京大学工学部都市工学科卒業。東京基督神学校に学ぶ。日本同盟基督教団 理事長。東京キリスト教学園東京基督教大学 理事長。

伝道に用いられることを期待

翻訳の内容について具体的な箇所を取り上げることは、すでに多くの方々がなさっていますので、私は、初めて『新改訳2017』を手にして読んだときの、個人的な第一印象を書きます。「断然良くなった」と感じました。しかし同時に「課題」も感じています。
① 以前に比べて断然良くなったと思います。
私が初めてキリスト教会に行ったのは、大学三年生のとき、一九七七年でした。家には『口語訳』の聖書がありました。少しは読んで、「聖書ってこんなものか」というイメージをもっていたと思います。初めて行った教会では『新改訳』という別の聖書を使っていました。手に入れて読み始めました。その時の印象は、漠然とした違和感でした。馴染みのない語彙、得も言われぬ特徴をもった文体に、今まで見たことのない世界を垣間見た思いがしました。当時ひっかかった箇所を一例だけ上げます。士師記1章34節後半「エモリ人は、なにせ、彼らの谷に降りて来ることを許さなかった」。初めて読んだとき、「なにせ」にちょっと笑いました。四十年以上前のことです。
繰り返し聖書を読むうちに、初めに感じた違和感はだんだんなくなっていきました。それはもしかすると、この世の感性を失って、キリスト教会の用語法に染まる過程であったのかもしれません。それでもどこかに残る引っ掛かりがありました。けれども今回『新改訳2017』を読んで、語彙や文体の違和感をまったく感じませんでした。それは率直に言ってうれしいことでした。
帯に三つの特徴として、① 聖書学の進歩を反映、② 原典に忠実、③ 朗読に適した読みやすい日本語、とあります。まさにそのとおりの成果と思います。長歳月の研鑽の積み重ねと、福音派の成熟と、関わった方々の御労苦の結晶を手にしたのだという、感謝と喜びを感じています。
② 課題と思うことを書きます。
キリスト教主義学校やキリスト教主義団体へ行って聖書の話をすることがたびたびあります。それは貴重な伝道の機会です。そういうときに先方が使っているのはたいていの場合は『新共同訳』聖書です。初めて教会に来る方々が、すでに聖書をもっている場合、そのほとんどは『新共同訳』聖書です。私は『新改訳』を使いたいのですが、相手がもっている聖書に合わせる場合がほとんどです。聖書は礼拝で公的に使い、ディボーションに個人的に使うだけでなく、伝道のための基本的なツールです。伝道の初めに、「皆さんがもっている聖書ではなく、新改訳2017を使いましょう」というのは、福音を提示する前にもう一つ別のハードルを設けてしまうと思います。
今多くの人がスマホをもっています。聖書アプリが誰にでも手に入ります。『口語訳』は著作権保護期間が切れているので無料で入手できます。最近『新共同訳』も無料で入手できるようになりました。私はキリスト教主義学校で聖書の授業をするとき、無料の『新共同訳』を入手して使うよう勧めています。『新改訳2017』を三千円で買うように学生に求めることはできません。(ただし、『新改訳2017』のアプリが毎月百円で『新聖書注解』や『新聖書辞典』とリンクできるのは、感謝しています。)『新改訳2017』は素晴らしい聖書翻訳なので、伝道のためにもっと活用できるように、普及拡大の仕組みができていくよう期待しています。ネットやトラクトや書籍に引用されるときの著作権のハードルを低くして、誰でも使いやすくしてくださるようお願い致します。

キリスト教の伝道が日本に比べて格段に進んだ韓国では、公用の聖書は教派教団を超えて基本的に一種類であると聞いています。そのほうが、伝道の最前線ではやりやすいと思います。日本の教会ではありえないことなのでしょうか。
それから、『新改訳』をバカにするような記述をしている書籍に、反論するとか対話をするとか、何か対応していただいて、伝道の現場で牧師伝道者が肩身が狭くならないようにしていただくとよいと思います。例えば、ちょっと昔の例ですが、田川健三氏の『書物としての新約聖書』の『新改訳』への言及の仕方は目に余るものがあったと思います。
要するに願うことは、『新改訳2017』が、宣教の前進のために大いに用いられることです。祈りつつ、公に、私的に、伝道に、大いに用いてまいります。