特集 みことばに“触れる”─ディボーションの恵み 主の元に運ぶ、“信仰の担架”

単立 アドラムキリスト教会 牧師
NPO法人チェンジングライフ 理事長 野田詠氏

すべての親に贈る、子どものための祈りの指南書が本書である。
人生のさまざまな局面において、打開する力を与えるみことばが随所に散りばめられていて、まるでみことばの宝石箱のような本書である。
私は、愛する子どもの顔を思い浮かべながら本書を読み進めた。子を思う親の気持ちに国境はない。共感したり、後悔したり、登場人物の親の気持ちから、この人は親として、こんな気持ちになったんだ……など、疑似体験をすることができた。
本書の一六一頁で著者は言う。「私たちが放蕩の子のために祈ることは、彼らを信仰の担架に乗せてイエスの御元に連れていくということです」。 祈りは、“対象者”を主の元に運ぶ、“信仰の担架”であると。
また、本書から教えられたことの一つに、子育ては画一的な方法では成功しないということがある。五七頁で著者は、娘が十五歳で家出をしたとき、専門家から善意で次のアドバイスを受けた。「彼女が顔から地面に落ちるように、そうして学ばせるために、彼女に行かせなさい」(訳注・痛い失敗の経験から学ばせるという英語的表現)
失敗から学ぶのは、人間のつねである。しかし、問題はその子その子にとって、いま、どの時かということだ。失敗することをわかっていながら、(胸を激しく痛めつつも)黙って背後でとりなす時か、あるいは、子どもがいま、犯そうとしている過ちに命がけで介入し、親の権限で回避させる時であるか、それを見分ける“眼”が親に必要であるということ。子育てには、この両方が極めて大事だからだ。
最後に、本書を読んでいて、子どもが小さいときに、もっと、肩車をしてあげたらよかった、肩車できるのもある時期だけ……。そんなことを思わされながら、主なる神はそんな“親子もろとも”、肩車してくださるお方であると気づかされた次第である。
神の前には、どんな人も放蕩息子のように歩んでしまうことがある。しかるに本書は、すべての親に祈りと教訓を与えてくれるであろう。