リレー連載 牧師たちの信仰ノート

中台孝雄(なかだい・たかお)
日本長老教会・希望キリスト教会牧師。
hi-b.a.(高校生聖書伝道協会)代表役員。

第十一回 「主の導きの軌跡」②

四十代の頃、一度だけ、中学二〜三年の時の同窓会がありました。
こうした同窓会では、皆それぞれ断片的な記憶しか持っていないため“言ったもん勝ち”で、当時についての発言を否定も肯定もできないのですが、私が牧師をしていると知った友人から「そういえば、おまえはあの頃から牧師になると言っていたからな」と言われました。
そんなことはないはずだ、中学生の頃の自分は映画監督になりたかったし、そう口にしていたはずだ、と思ったのですが、“ひょっとして、そんなふうに言っていたのかもしれない”という疑念を、自分で否定することもできませんでした。
そのクラス会は、静岡県島田市で行われたものでした。中学二年になるとき、父の仕事の関係で千葉県から静岡県に引っ越し、二年間その地の中学校に通っていたからです。
地元の教会に毎週出席しましたが、のんびりした田舎(とそのときの私は思った)で、特に勉強に力を入れる必要もなく、日曜日は礼拝が終わるとそのままパンを買って映画館に行き、夜の最終上映までずっと映画を見て過ごしました。
その頃は、将来映画監督になりたくて、東京から映画の専門書やシナリオ雑誌を取り寄せて読んでいました。キリスト教の証しになるような映画を作りたいと思っていたので、牧師という選択肢も考え始めていたのでしょうか。
中学卒業が近づいた頃、父が上司から「息子さんを千葉のほうで受験させておくように(まもなく転勤で千葉に戻ることになるから)」と示唆されたようで、母に連れられて、受験のために静岡から千葉に通い、無事高校に合格して、春休みに千葉に戻り、高校生活が始まりました。小学校から中学一年までの友人たちの多くも同じ高校に進学していて、再会しました。
教会も元の教会に戻り、引っ越しとともに消息が不明になってしまう子どもたちも多い中で、中学時代に信仰を貫いて戻って来た高校生がうれしかったのでしょうか、数週間後のイースター礼拝で、念願の洗礼を受けさせてくれました(勉強会や試問なしに! 今では考えられないことですが)。そして教会から「毎週木曜、Hi-B.A.(当時の表記)という高校生の集まりがあるから行ったらいいよ」と勧められ、部活に早くも挫折した五月に行ってみました。
私が行った千葉集会の担当は堀内顕スタッフで、「今週が最後で、来週から大阪の八尾というところで牧師になります」とのことでした。私は、わずか一回、数時間の集会でしたが、正真正銘、堀内先生のHi-B.A.スタッフ時代の“最後の教え子”ということになります。
その後、高校時代三年間、定期集会に、特別活動に、キャンプにと、Hi-B.A.の活動に参加して、信仰の友を得、信仰が養われました(高一の夏キャンプの部屋カウンセラーが、このシリーズの前回執筆者の太田和功一先生)。そうした中で、直接伝道への献身の決意をし、映画や芝居を観ることもやめ、蓄めていた映画関係の資料や貴重なパンフレットなどをすべて捨てました。
振り返ってみて、自分の信仰生活の中ではかなり「原理主義的なキリスト教徒」の時代でした。
その後、何年もしてから、趣味は趣味として自分の人生に取り戻すことになり、一般恩寵の世界も大切にすることを知るようになるのですが、一度自分の手を開いて、捨てるべきものは捨てるという経験は、人生に必要な訓練だった、と感じています。
Hi-B.A.で信仰の養いを受けたことから、神学校を経て伝道者となり、二十代から三十代初めまでスタッフとして働きました。初任地である神奈川地区での三年間は、特に自分にとっての青春そのものであり、出会った高校生たちとの思い出は強く心にとどまっています。その後、二年間の関西地区の担当を経験して、再び関東担当に戻りました。
できれば年を重ねても高校生伝道を続けたいと願っていたのですが、あるとき唐突に、そして強引に、その働きから引き離されました。仕方なく(当時の気持ちです)、やりたいとなど、まるで思っていなかった地域教会での牧会に従事するようになりました。今振り返れば、主なる神がご計画に沿ってご自身の働き手に対して、強制的な形であれ人事異動を発令なさったのだ、とわかります。
牧師の仕事は、ほぼ三年間で送り出す高校生伝道とは違い、信徒の皆さんと長く人生を共にする働きでした。幾人もの聖徒の方々を天にお送りし、「牧師の仕事とは、あちこちの病院のどこに霊安室があるかに詳しくなる働きだ」と思ったりもしたものでした。