特集 いま、「キリスト教漫画」が熱い!漫画を描く喜び ~一人のクリスチャンとして

漫画家・『すてきな毎日』著者  長谷部愛美

私は、子どもの頃から絵を描くことが好きでした。それにもまして、物語を読むことが大好きでした。
私の家にはたくさんの本があり、その中に漫画本も多く交じっていました。手塚治虫や長谷川町子作品に至っては、シリーズで全巻揃っていたのです。父は大学で教鞭を執る人でしたが、本も漫画も等しく好んで読む人で、私や兄弟はみんな小さい頃から、漫画を当たり前のように読んでいたのです。
私は、西岸良平さんや小山ゆうさん、くらもちふさこさんや高野文子さん、杉浦日向子さんの作品など、市井の人々、また人間一人一人の心の機微に触れるような作品を、特に好んで読んできたような気がします。
私は長ずるに及んで漫画を描くことになるわけですが、それに全く抵抗がなかった理由として、漫画は、それ自身が文学作品と同じくらい、何かを表現するため、伝えるための素晴らしいジャンルだ、ということを当たり前に思っていたからだと思います。

私は現在、商業漫画界の片隅で漫画を描いています。漫画を描く動機といわれれば、私自身が読みたい漫画を求めているから、と答えたく思います。今の時代、漫画を描き、発信する行為は、デジタル処理技術やインターネットの普及によって昔より格段に手軽になっていると思います。綺麗な絵で描かれた人間の欲求を満たそうとする漫画作品は、本当にたくさん市場にあふれ、とても手軽に入手し、読める時代になっていると思います。それらの作品に実に素直に感動しつつ、でも私自身は、なんだか何かが物足りない、なんだろうこれは、という声がいつも胸の奥底でざわついていました。魂が震えるような感動に出会う機会は、大量の作品群があふれかえる状況に反比例して減っていくような気がしていました。

私は、東北に住んでいます。東日本大震災後、いのちのことば社の「百万人の福音」と「らみい」でそれぞれ大人向けと子ども向けとして漫画を描く機会が与えられました。そのとき私は、震災の経験から「一人のクリスチャン」であることを強烈に意識しつつ、自前のテーマをゼロから作り出そうと決心しました。それは、クリスチャンとして普通に生きる人間の「信仰生活」を漫画で描いてみること、また、「十戒」の深い意味を、羊の群れを主人公としたファンタジーの世界で描いてみること、という課題でした。どちらも、人間と神様の関係に視点を据えて作り上げる独自の物語です。
前者の作品は無事に連載が終わり、『すてきな毎日―聖書の知恵の書「箴言」を生きる』という単行本になりました。後者は続編を第二部「ラムリィたちの冒険」として「らみい」で連載させていただいています。

これは私にとってなかなかの挑戦的な仕事でした。なぜなら、私はこれまで日本の漫画というジャンルにおいて、「普通の人の信仰生活」をテーマに描いた作品を見たことがなかったからです。十戒をテーマに独自に作り出すファンタジーも手本はありませんでした。日本の商業マンガ界の「これを描いておけば売れる」というセオリーからはどおんと外れた分野の制作課題です。
でも私にとってこの創作の作業は、本当に、本当に楽しいものでした。この二つの、手本のない創作に取り組んだことは苦しかったですが、その苦労を上回るほどたくさんの恵みをいただいたからです。それは、「神様のまなざし」を想像する恵み、とでも言うべきものでした。
もちろん、私のちっぽけな想像の域を出るものではありません。しかし、そんなものでさえ、私にとっては、神の愛というものがいかに大きいものであるか、その大きさを推し量る経験を得ることができたのです。神様を知ることは人間を知ることだ、とカルヴァンは『キリスト教綱要』の中で言っていますが、漫画制作を通して、私はそのことの意味を深く味わえたような気がします。
これらの漫画制作を通して、一つ確かなことを学びました。それは、人間は本当は神様の愛を求めて生きている存在なのだな、ということです。そしてその神様の愛は、本気で求めれば知ることのできるものであり、知るためにはやはり聖書が必需品であり、そして、そのためには祈りが必ず力を与えるのだということ。
この「確かなこと」については、きっとこれからも、「長谷部愛美」の作品を通してずっと描き続けていくことになると思いますし、別のペンネームの私の漫画でも、隠れたテーマとして描き続けていくことになるものだということを確信しています。

『すてきな毎日 聖書の知恵の書「箴言」を生きる』
長谷部 愛美 作
A5判 定価1,300円+税