時代を見る目 197 子どもホスピス [2]
「この子らを世の光に」「この子らと光の中を」
鍋谷まこと 淀川キリスト教病院 小児科部長 日本における子どもホスピス――。どのような言葉がそれを最もよく表すのか考えたときに、まず「この子らを世の光に」という言葉が頭に浮かびました。この言葉は障害児福祉の中では有名な言葉で、日本の戦後の重症障害児福祉の草分けの一人である糸賀一雄氏の言葉です。氏はこの言葉を通して、障害をもつ子どもらの無限の可能性を世に示したのです。日本の障害児福祉は、その時代から今に至るまで着実に広がりを見せ、多くの障害のある子やそのご家族を救ってきました。その手厚さは皆保険制度と並び、世界的にも評価されています。ただその援助形態は時代に応じ変化が見られます。重度の障害児に対しては当初は入所施設が中心でしたが、この20年では在宅支援の必要性が増加してきて多くの通園施設が日本中にでき、訓練や専門の保育などを提供しました。この10年では、人工呼吸器や中(※)心静脈栄養をしたまま退院する、より重症度の高い子どもさんの在宅の数も増えてきたため、レスパイト(一時預かり)の制度が広がりつつあります。この点は前回この誌面で紹介した、英国発祥の子どもホスピス「ヘレンハウス」と共通しています。ただ私が思うに「ヘレンハウス」と比較したときに、日本の障害児福祉に欠けている視点があります。それは「愛する者の衰弱や死を見据え、共に過ごし、看取りまで支える」という視点だと思います。日本において病気の悪化や死と向き合う場所は病院内だけであって、障害児福祉は、「施設とは障害児の日常を過ごす場所である」という視点なのです。そのため、病状が不安定な状態の子どもは原則受け入れ不可能な施設がほとんどです。しかし多くの難治性疾患患者が医学の進歩とともに助かり、在宅で過ごす時間が増えています。そうした中で、病状が不安定ながらもそういうレスパイト施設を希望されるご家族の必要性は高まるばかりなのです。私は、そういう重症な病気や障害をもち、時に死と隣り合わせの病状の子どもたちと御家族を想うときに「この子らと光の中を」という言葉に思い至りました。子どもがどんなに重症でも、また残された時間は限られていたとしても、共に過ごし、楽しみ、光り輝く瞬間を共有できるはずです。日本においてこのような取り組みが可能な専門の場所「子どもホスピス」はまだ存在しませんが、皆の祈りの中で実現することを願っています。…
ともに歩んで四十八年
~今、止揚学園を語る 止揚学園の「希望の神学」
大和昌平 東京基督教大学准教授、元京都聖書教会牧師 止揚学園は不思議な場所です。重い知能障害をもつ人たちのための施設なのですが、訪れる度に「教会とは何なのか……」を牧師として考えさせられてきたからです。京都聖書教会に赴任した頃、講演にお招きしたリーダーの福井達雨(たつ う)先生に勧められて、滋賀県東近江(おう み)市にある止揚学園を教会のメンバーと訪ねました。この止揚学園訪問は病みつきとなり、年に一度の訪問が二十年以上続いてきました。止揚学園の玄関を入ると、板敷きの廊下はピカピカに磨かれて老舗旅館の風情です。窓ガラスには時折鳥が衝突するほどで、この徹底した清潔ぶりが止揚学園の第一印象でした。トイレをいちばん楽しい場所にしたいとの考えから、ぬいぐるみの人形と並んで待つ待合室も作られています。ここで働く人たちは作業着でなくて、それぞれの私服を着ています。研修にきた大学生がトレーナー姿だったので、福井先生に追い返されたと伺いました。人に会う時は、自分の服をきちんと着てくるのが当然の礼儀じゃないかということなのですが、福井先生のこの厳しい優しさが止揚学園の空気に明るい緊張感を与えています。京都から車で朝十時頃に到着すると、まず礼拝の時をもってくださり、初参加の人には園内を案内してくださいます。私は午前の時間によく薪割りをしたことが楽しい思い出になっています。現在はかなわなくなったようですが、身体がよく温まるからと、薪で風呂を焚いておられました。本当にいいものを心込めて提供するという姿勢が一貫しています。昼食は、たくさんあるテーブルごとに数人が座って、大きな家族のような雰囲気です。園生の人たちの身体を考えて夜は軽くし、昼食をメインにしています。スタッフの方々が交代で心尽くしの食事を用意されるのですが、食事作りのボランティア・グループもあります。昭和の一家団らんを思わせる、この昼食のおいしさは格別です。食後は止揚学園で作られた歌をみんなで歌い、歌にあわせて踊ったりして、消化を促すのだと伺いました。いつも私のそばに来てくれる女の子がいて、私はうれしくて一緒に踊ったのですが、その子のお父さんに私が似ているからだということでした。「昼ごはん、おいしかったよ!」と皆さんに挨拶すると、ワッと沸く反応があって驚きました。逆に、形だけの挨拶には何の反応もないのです。ここは見せかけが全く通じない場所なのだとわかりました。だから、本物が問われることになるのでしょう。私は止揚学園のカレンダーを毎年買って、部屋に貼っています。断然元気をもらえるからです。曇りのない原色の温かく力強い表現は、止揚学園に何があるのかを物語っています。昼食の席で皆さんの賛美を聞いた時、あの原色の絵と同じだと感じて、胸がいっぱいになりました。自分たちの歌を心一つに腹の底から歌う。この姿も私が止揚学園ファンになった要因だと思います。昼食後に少し作業していると茶菓の時間となり、いつも午後三時頃には失礼してきました。一日共に過ごしてくださるのがうれしいのだという言葉に甘えて、この訪問をやめられないできました。ふり返って私の心にいちばん残るのは、「この人たちに私は謝らないといけないのです」と福井先生が真顔で言われた言葉です。地域の学校に通わせたかったけれども、それができなかったことに自責の念を持っておられるのです。また、そういう社会であることに心を痛めておられるのだとも思います。先生のその悲しみが、止揚学園の玄関に掲げられた聖句につながるのでしょう。「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(Ⅱコリント4章18節/口語訳)この言葉の前には、外なる人が衰えゆく今の軽い患難は、やがて想像もできない重い永遠の栄光をもたらすのだとあります。私たちの苦しみは、主イエスが味わわれた十字架の苦難につながっているとパウロは考えました。だから、弱さの中で大いなる希望に生きうるのだと展開するのですが、この「希望の神学」こそ止揚学園の心だと思います。東京基督教大学では福井先生の特別講義があり、今年度は一人の学生の止揚学園への就職が決まりました。キリスト教福祉専攻の学生だけでなく、教会教職専攻の学生にも「人生を変えたいと思うなら、止揚学園のインターンシップに行くべきだ」と、私は学生たちにチャレンジしています。それは、ここに行く度、「教会とは何なのか」を問われてきたからなのです。…
ともに歩んで四十八年
~今、止揚学園を語る 止揚学園の思い出
向谷地 生良 北海道医療大学教授 私が初めて止揚学園に教会のワークキャンプでお邪魔したのは高校二年生の夏休みの時ですから、早いもので三十八年前になります。止揚学園を知ったきっかけは、教会の高校生会で福井先生が書かれた『僕アホやない人間だ』(柏樹社、一九六九年)の講読会をしたことでした。振り返ると私が小学校の途中まで、クラスには普通にさまざまな障害を持った子どもたちがいて、一緒に学校に通った経験を持っています。しかし、ある年を境に、子どもたちは私たちの前からいなくなり、自分たちはそのことに何の疑問も持つことがなく過ごしていました。そのことの意味を知らせてくれたのが、福井先生の本でした。それまで、重い障害をもった子どもたちの現実にまったく触れることがなかった私たちは、大きな衝撃と感動を持って本を読み進めました。本を読み終えたとき、私たちの中に自然と「止揚学園に行きたい!」という声が湧きあがり、七人(男四人、女三人)の生徒と引率の教会員をともなって、青森から列車を乗り継ぎ、滋賀県の能登川に向かいました。今も忘れられないのが、青森とは比べ物にはならない蒸し暑さとスコールのような激しい雨。近くの藪から見つけたシマ蛇のしっぽを掴み、ブーメランのように振り回し、一緒に行った女子高生を追いかけ回す福井先生のやんちゃな長男の義人(よし と)君。そして、子どもたちの人間性を守るための真剣な議論と、当たり前の暮らしを実現するためにお茶碗ひとつをとっても瀬戸物を使い、囲いのないトイレが多い中で、普通のトイレが用意されている光景です。食事から排泄まで、私たちが何げなく行っている生活のひとコマひとコマを子どもたちの立場になって重んじる辛抱強さと、その根底に流れる人間に対する信頼は、高度成長期を過ごす私たちには大きな衝撃でした。あっという間の一週間でしたが、帰った後、私たちは、献金などで応援していただいた教会員の方々に、報告を兼ねてガリ版印刷で文集を作ることで感謝の意を表しました。私は、今でもその文集を大切に持っています。その表題は「美しい瞳」でした。タイトルの意味は、自分たちの瞳は死んでいるように思え、それに比べて、止揚学園の子どもたちの瞳は本当に美しいと感じたからでした。修学旅行に参加することをやめて行った止揚学園での経験は、その後の進路選択で私が社会福祉を学ぶきっかけとなりました。北海道の大学で社会福祉を学ぶことになった私でしたが、今でも思い出すのが「社会福祉概論」という一年目の講義の最初のレポート課題です。「あなたの考える社会問題とは何か」という課題でした。私は迷わず止揚学園での経験を書きました。福祉に対する情熱は、誰にも負けないという強烈な自負心がありました。同級生は先輩のレポートの丸写しをしたり、先生の専門分野である高齢者問題を書くと良い点数がもらえるよ、という周囲からの情報にまったく耳を貸さず、熱い思いを込めて書いた最初のレポートでした。しかし、レポートが返却されると評価は最低で、赤字で「これは論文じゃない。作文です!」というコメントが書かれていました。他の丸写しの学生の点数よりも悪かったのです。私は、まるで門前払いをされたようにショックを受けました。「学問としての福祉」という冷たい扉を開けることになった私の大学生生活は、そのような最悪の気分でスタートしたのですが、今となっては懐かしい思い出です。そして、大学を卒業して就職したのが北海道日高の浦河町にある病院です。そこに浦河教会がありました。偶然ですが、教会のある苫小牧地区では、毎年のように止揚学園にトウキビと秋サケを送り続けています。そして、送られてくる丁寧な手作りの礼状には、馬嶋克美さんなど止揚学園の懐かしい人たちの顔写真がいつも載っていました。私は、ソーシャルワーカーとして病院で働き、主に精神障害を持つ人たちの相談支援に関わるようになりましたが、私の中では、止揚学園の経験が今も実践の中に息づいています。四十年近くが経ち、建物も、周りの風景も大きく変わっているかもしれませんが、これを機会に、もう一度、止揚学園を訪ねてみたいと思っています。…
ブック・レビュー 親子で聖書に親しむきっかけを!
込堂 一博 日本福音キリスト教会連合 旭川めぐみキリスト教会牧師 現代の混沌とした社会の根源的原因は、人間の真の座標軸であり、基準である聖書を知らないことにあると常日ごろ思わされている。今こそ、大人にも子どもにも、聖書のメッセージをわかりやすく伝えることが急務だ。そのような中で、聖書に親しむきっかけともなる『聖書ものがたり絵本』が出版されたことは、時宜にかない喜ばしい。絵本の文章を書かれた作者は、あのNHKテレビの人気人形劇「ひょっこりひょうたん島」を世に送り出した武井博氏。武井氏は、児童文学作家の経験もあり、現在は牧師として活躍されている。その武井氏の文章は簡潔でわかりやすい。時として難解な聖書の内容を、子どもでも理解できる文章で表現されていて見事だ。絵を担当されたのは日本画家の小林豊氏。聖書のリアリティと中東の空気感を大切にして描いたという。素朴とも感じられる絵に、聖書人物たちの内面的なリアリティがよく表現されている。穴に投げ込まれた時のヨセフと兄たちの好対照の表情、ヤギの血で染まったヨセフの服を見入る父ヤコブの慈愛と苦悶に満ちた表情、燃える柴を前に、神の声を畏れおののいて聞き入るモーセの表情など。そして、聖書世界の自然描写が迫力をもって読む者の心を捕らえる。さらにこの絵本は、主が聖書の登場人物たちをどのように導かれたかがよくわかる。親がわが子に読み聞かせることにより、親子の温かなふれあいが生まれ、親子ともども聖書に親しんでいくきっかけの絵本になるに違いない。大人も子どもも、この絵本を読むことにより膨大な聖書の中心的流れを理解しやすくなる。「絵本は単純に子ども対象の本などではなく、大人にも計り知れぬ意味を語りかけ、深い思いをさせてくれる本だということを改めて確信させられます」(『松居直のすすめる50の絵本 ――大人のための絵本入門』松居直著・教文館)。この言葉に正直同感する…
ブック・レビュー 日本はどのように福音を語ったか
星出 卓也 日本長老教会 西武柳沢キリスト教会牧師 『和解と教会の責任』というタイトルだけを見ると、「戦争や平和問題についての本ですね」と簡単に片付けられやすいところでしょう。しかし、この本が問うていることは福音宣教そのものです。日本の教会はどのように福音を語ってきたのか。そして今、私たちはどのように福音を宣教しようとしているのかを、この本は問いかけています。安藤肇氏は、戦時下の日本の教会のアジア諸国への福音宣教を赤裸々に語ります。日本政府がアジア諸国を植民地化し皇民化政策を進める中で、多くの日本の牧師たちが日本政府の要請によってアジア諸国に送り出されました。派遣された目的は、効果的にアジアのキリスト者たちを日本人化するためでした。神社参拝を奨励し、戦争や占領政策に協力させる。しかし多くの牧師たちは、それがアジアにおける宣教の働きの門を開き、同時に国策にも適うという理想に燃えてアジア諸国へ出て行きました。このような宣教はまさに、虐げられる側の苦しみを共に担う宣教ではなく、迫害する側に立った宣教。福音に仕える宣教ならぬ国策に仕えた宣教。世に仕え、同時にキリストにも仕えようとした宣教でした。福音宣教とはどのようにあらねばならないか。歴史の中に何と多くの教訓が残されていることでしょうか。宗教改革者たちが、国家や教皇主義という外圧から教会の信仰の自由を勝ち取るために戦い続けた信仰的独立という財産。キリシタン弾圧において、地上のいのちを捨てることになっても、永遠のいのちを得ることを選んだ殉教の証し。この歴史を学びながら、私自身、今立っている信仰の足元に何か大切なものが欠けていることを、先人たちが勝ち取った信仰の財産を受け継がなければならないことを、思わずにはいられませんでした。今私が立っている信仰と今私が仕えている宣教を、歴史から問い直すように、考えるように。この書は私たちにそう問いかけている非常に重要な書です。…
ブック・レビュー 自己中心に病んだ教会の現実の中で
斉藤 隆二 日本聖約キリスト教団 山陽聖約キリスト教会牧師 本書は、現代のクリスチャン生活・キリスト教会が直面している諸問題についてとり扱ったエッセイ集である。一つのトピックに関する文章は三、四ページと短い。取り上げるトピックも、教理に関するものから、飲酒・喫煙といったような具体的な事柄にまで多岐にわたる。体系的に論理が展開する構成ではないので、読者は当初脈絡の無さや、物足りなさを感じるかもしれない。紙面の都合だからだろうか、具体例も少なく、聖書の引用も決して多くない。しかし、まとまりを欠いた書物かと思うと、そうでないことは、読み進めるうちにわかってくる。「病める社会」とは″罪ゆえの自己中心性に支配されたこの世〟であり、そこに生きるクリスチャン・教会も、実は自己中心性を強く残していることが次第に浮き彫りにされる。そこに、教会内のトラブルの根源、そして日本におけるキリスト教の停滞の原因を著者は発見している。すなわち、クリスチャンの自己中心的な教会観、造り変えられようとしないかたくなさ、言葉だけの「兄弟姉妹」、過度の傷つきやすさ等である。教会もまた、自分たちの教会こそ、と信徒を囲い込もうとしたり、教団同士も十分に連携しようとしないことも、キリスト教の停滞の仕組みとして指摘される。読者は、深いエゴの根がクリスチャンと教会にはびこっている現実に気づかされるだろう。「私たちはみな、存在自体が迷惑という部分を持っている」(一五一頁)という言い切りには、人の目のちりに気づきつつ、己が目の梁は除かない自分を問われる。しかし著者は、批判のためにこの書を記しているのではない。自己中心性ゆえに引き起こされる多くのつまずきの中で、その病理を直視するなら、そこから真の求道が始まることが指し示されている。やはり福音にこそ解決があるのだ。「赦された罪人」としての自己認識こそが、健やかな歩みの秘訣であることを改めて教えられる。…
ブック・レビュー 「福音の真理」を立体的に描き出す
広瀬 薫 日本同盟基督教団総主事 私事になりますが、約二十年前の神学校在学中、ちょうど伊藤明生先生がイギリス留学を終えて帰国されました。授業で、当時の最新の研究の息吹に触れさせていただいたことは刺激的でした。講義内容は「ガラテヤ人への手紙」。著者はその後もこの書を、授業や講演会等で繰り返し取り上げてこられたようです。その集大成ともいうべき本書がついに出版されたのは嬉しいことです。ガラテヤ人への手紙は、特有の複雑な背景を持った書です。専門的素養の質と量が求められます。その点、本書は充分に歴史的釈義的神学的に課題点を解き明かし、この書が伝える真理が私たちに立体的に見えるようにしてくれています。例えば、背景となる「かき乱す者たち」の実像。アンテオケで起きた事件の真相。パウロの生涯の展開の理解。当時の教会の人間模様。教会を取り巻いていた時代背景、等々。読者の前には、この書が生み出されねばならなかった当時の熱い背景と共に、この書が担う永遠の真理の素晴らしさ、今私たちがあずかっている恵みの大きさが、生き生きと展開されます。そして、パウロが戦い守った真理を担う使命が私たちにもあることがよくわかるでしょう。さらに、パウロが展開する独特の難解な議論についても、著者はていねいに解説を加えていて、私たちをパウロの世界に導き入れてくれます。本書全体の構成は、著者の「私訳」「講解」「緒論」「注」、となっていて、講解は実際に教会で語られた二十三編の説教をもとに構成されているので、信徒の方は充分に養われるでしょう。注と緒論には、最近の諸学の成果が手際よくまとめられていて、高度な学びを求める読者をも充分に満足させるでしょう。そこには、有名な「南北ガラテヤ説」の件はもちろん、多くの人に新しい興味深い視点を与えるであろう「中央アナトリアの宗教」の解説、さらに「修辞学・書簡批評」などの知識が提供されています。本書によって「聖書って本当におもしろい」の感を、読者は深めることでしょう。…
CD Review ◆ CD評 祝福し合う幸いを日本でも――
韓国版「God Bless You」誕生!
松田 悦子 東京武蔵野福音自由教会会員 韓国の教会では人々を歓迎し、祝福する歌がよく歌われる。その時間を通して、祝福する幸いを知り、また自分が神様と人に愛されて祝福された存在であることを実感できる。私は韓国で初めて体験したとき、見つめあい、手を差し伸べて祝福することがとても気恥ずかしかった。しかし、何度も経験するうちに、その曲に込められた思いが私の思いとなって、相手の目を見て祝福し、私もまた祝福されることの幸いを知るようになった。日本で生まれた「God Bless You」はとてもすばらしい祝福の歌であるが、そのほかにもこのCDには、韓国で作られた祝福の歌が、韓国人アーティストたちによって多数収録されている。日本語訳詞の依頼を受けて何度もCDを聞く中で、何とも言えない温かい気持ちになった。それぞれ曲調も表現も違うが、そこに込められている神様の祝福、また、私たちがお互いに祝福し合う幸いをひしひしと感じたからだ。今や広く知られている「きみは愛されるため生まれた」のほかに、子どもたちが大きく育つようにと願う「ヤコブの祝福」、神様の愛をストレートに表現している「天の祝福」、第一コリント十三章を歌詞にした「完全な愛」、神様が出会わせてくれた人への思いをつづった「大切な人」、分かち合うことの祝福を教えてくれる「分かち合いの美学」、祝福を力強く歌った「祝福します」、神様に選ばれていることを証しする「祝福の歌」、そして音楽だけでも胸に迫る「Your Love」。時には励まし、時には慰め、また、ある時はチャレンジを与えてくれるこれらの歌の根底には、神様の愛と祝福がある。全曲訳詞が付いているので、韓国語がわからなくても内容を理解して聴くことができる。このCDを通して、神様の愛と祝福をもって互いに祝福し合う幸いが、日本の教会に満ち溢れることを「God bless youコンサートin 韓国」に出席することができた一人として願う。…
DVD 試写室◆ DVD評 教会のオルガニストが作曲した、超有名な唱歌とは?
「永遠のふるさと ~唱歌・童謡から賛美歌へ~」<後編>
大橋由享 友愛グループ イエス・キリスト ファミリー教会牧師 前回に続きDVD「永遠のふるさと ~唱歌・童話から賛美歌へ~」をご紹介したい。日本に近代音楽の礎を築いたのは、米国の音楽教育における第一人者であり、熱心なクリスチャンでもあるルーサー・ホワイティング・メーソン。彼の働きと唱歌・賛美歌の共通点、そこに秘められた謎については、前回ご紹介したように第一章「お雇い外国人と唱歌誕生の謎」で取り上げられている。以来、メーソンが日本という土壌に蒔いた種は実を結び、すぐれた唱歌、童謡を作る日本人が次々と登場した。第二章「十字作のもとに童謡を……」では、それらの中でも、特に、クリスチャン作家を取り上げている。たとえば「赤とんぼ」を作曲した山田耕作。作詞を担当した三木露風。「椰子の実」を作詞した島崎藤村。教科書でもおなじみの彼らは、若くして受洗した信仰者である。そして、第三章「永遠のふるさと」では、ひとりの作曲家にスポットライトを当てている。その名は、岡野貞一。貞一は鳥取に生まれ、14歳で洗礼を受けた。19歳で上京し、東京音楽学校に入学。29歳で文部省小学唱歌編纂委員に抜擢され、数々の唱歌を作曲した。東京音楽学校の卒業生が次々に海外に羽ばたいていく中、貞一は海外はおろか東京を離れることもなかったという。教会のオルガニストとして礼拝でオルガンを弾くことに、海外に行くこと以上の価値を見出していたのだろうというのが本作品の推測である。事実、岡野貞一は死の直前まで、42年間にわたり、本郷中央教会でオルガンを弾き続けたのだ。不勉強な私は、彼のことを知らなかった。言い訳をするようだが、第二章に登場する綺羅星のごときメンバーと比べると、知名度はいまいちだろう。しかし、彼の生み出した曲のリストを聞いて驚いた。「もみじ」「春の小川」「桃太郎」「朧月夜」など。だれでも知っている名曲ばかりではないか!そして、彼の代表作として忘れてはならないのが、「故郷」である。貞一自身は、19歳で上京してから64歳で天に召されるまで、なんと、一度も故郷である鳥取に帰らなかったという。そんな彼が、どのような思いで「故郷」を作曲したのであろうか?本DVDでは、最後にこの曲について大胆な解釈をしている。キーワードは、タイトルでもある「永遠のふるさと」。これは、ぜひご覧になって、確かめていただきたい。…
誌上ミニ講座「地域の高齢者と共に生きる」 第6回 専門的ケアとの連携と人材
井上貴詞 東京基督教大学助教 「地域の高齢者と共に生きる」これまで、専門的な福祉事業に直接関わっていなくても、クリスチャンや教会が身近にできる地域の高齢者や家族への配慮、実践のポイントをご紹介してきました。それでは、より専門的なケアが必要な高齢者に対して、クリスチャンや教会はどんな役割を果たすことができるでしょうか。最近では、教会と密接な関わりを持つ福祉事業者や、教会自らが何らかのかたちでケアサービスに取り組む実践や模索も散見されます。そこで今回は、こうした専門的ケアとの関わりや実践の展望に心を留めてみたいと思います。地域の福祉施設とのパートナーシップ二〇〇〇年にスタートした介護保険制度は、戦後半世紀以上にわたって行政や社会福祉法人に限られていたケアサービスを、多様な実施主体が担うことができるように道を開いたことが大きな特徴です。営利企業、NPO、生協や農協などの様々な法人格が次々と福祉に参入し、地域に密着した小規模の福祉施設が数多く誕生しています。地域にそうした福祉施設があれば、個人や教会の小グループで訪問して交流したり、介護ボランティアをしてみることをお勧めします。悲喜こもごもの高齢者の人生模様から多くを学ばされ、施設からはケアのヒントやスキルを学ぶことができます。まさに「老人ホームは人間学校」と言えます。職業として従事する方は貴重です。かなり以前のことですが、キリスト教老人ホームで働いて信仰をもった女性が、受洗した教会の牧師に「日曜日に仕事が入る職場はよろしくない」と叱責を受け、その教会から離れてしまうという残念なことがありました。福祉の働きに使命をもって従事しようとするクリスチャンに対して、教会は、地域の宣教現場に派遣しているというくらいの意識でぜひ祈って励ましていただきたいと思います。そうすれば、その方は教会にとって欠かせない宝となります。クリスチャン職員の激減により、スピリット消失の危機にあるキリスト教福祉施設も祈って支えたいものです。小さな共同体における福祉主イエスは、人格的な交わりが保てる小規模の共同体で弟子たちと寝食を共にし、福音を宣べ伝え、教え、いやすわざを行いました。そのような人格的な関係の中でこそ、人はいやされ、福音は全人的に体現されていきます。筆者の所属教会では、二〇〇三年から介護保険指定事業「喜楽希楽サービス」を開始しました。宗教法人格で運営している理由は、ボランティアのケアでは限界を感じたことと教会の特性を活かした働きにチャレンジしたかったからです。また、教会が地域社会のニーズに応えることも宣教のひとつと捉える教会の理念の具現化でもあります。現在は、デイサービスに一日平均十二人の方が集い、毎日六、七件の居宅へヘルパーを派遣し、介護タクシーや居宅介護支援(ケアマネジャーによる相談とケアプラン作成支援)も行い、多くの人に喜ばれています。職員は全員、高齢者に仕えることに喜びと誇りをもつクリスチャンです。取り組みは多様、鍵は人材キリストへの信仰と愛をもって取り組む福祉の働きが全国に広がっています。社会福祉法人、企業、NPO、教会とそれぞれのスタイルによる一長一短はありますが、どのスタイルで取り組むかよりも重要なのは働き人です。信仰の有無だけで働き人を評価するような短絡的なことは避けるべきです。有能で配慮に満ちた多くのノンクリスチャンがキリスト教福祉の現場を支えているということを、実に謙虚に受け止めなければなりません。しかし、霊的側面も含めた全人的ケアのできるキリスト教福祉というのであれば、リーダーシップを発揮できる有能なクリスチャンスタッフが現場に絶対必要です。教会が地域の高齢者と共に生きようとするためには、教会に福祉の専門家が存在することも重要です。今後、大きな教会であれば、音楽主事や青年主事に加え、福祉主事も必要になることでしょう。筆者の奉職する大学は、聖書と介護福祉を専門的に学べる日本で唯一の神学大学です。高齢者ケアだけでなく、キリスト教世界観に立った障がい者福祉や精神保健、ソーシャルワークも学べ、国家資格も得ることができます。福音派におけるキリスト教福祉の働きは、現在大きな世代交代期を迎えています。キリストに献身して福祉の働きを志す方が多くおこされ、地域で弱さを抱える方と共に生きるクリスチャンケアワーカーが多く輩出されることを願って止みません。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である」(レビ記19章32節)…
子どもたちに今! 伝えたい
「性といのち」の大切さ… 第4回 セックスをどう伝えるか
永原郁子 マナ助産院院長 性教育開始の時期保護者対象の講演で「性教育を始める時期」について質問を受けることがあります。私は二歳から四歳頃ではないかと答えます。「ぞうさんのお鼻はなぜ長いの」という質問と同じ目線で「赤ちゃんはどこから生まれるの」とか「赤ちゃんはどうやって生まれるの」と聞いてきた時が性教育のチャンスなのです。ですから、性教育の最初の先生はお母さんということになります。興味本位な性情報が入ってくるとこのたぐいの質問はしてこなくなります。もしお子さんからこのような質問を受けたときには、こんな素敵な話をわが子に伝えることができることをまず喜んでください。「それはとても素敵なお話なのよ」とか「聞いてくれてうれしいわ」という風に。そう言っている間に少なからず押し寄せる動揺も抑えることができます。そして、性の大切さや素晴らしさを話してあげてほしいのです。幼児期~小学低学年に性の大切さ伝える方法答え方にはポイントがあります。まず赤ちゃんの元がある場所を説明します。男の人が持っている赤ちゃんの元はペニス(おちんちん)の横にある袋の中に、そして女の人が持っている赤ちゃんの元は、おしっこの出る所とうんちの出る所の間に赤ちゃんの通り道があり、その奥にある赤ちゃんのお部屋の横にある袋の中にあると説明します。この赤ちゃんの元がある部分と赤ちゃんを育てるためのおっぱいは特別に大切な所なので、汚い手で触ったり、人に見せたりしてはいけないのだとプライベートゾーンの大切さを教えてあげてください。この部分に触れられたり、また見せられたりしたら「いやだ!」と大きな声で叫んで逃げるよう性被害の防止についてもつなげて話すこともできます。もしそのようなことがあったら、必ず大人の人に教えるようにということも付け加えてください。そして、子どもからこのような報告を受けた時は決して怒らず、根堀り葉掘り聞かず、怖かった気持ちに共感し、教えてくれたことをほめ、そして状況によってはしかるべき対処をして再発防止に努めてください。次にいのちの元がどのようにして出会うのかというセックスについての説明ですが、「男の人が持っている赤ちゃんの元は空気に触れても水に触れても弱いので、ペニスを使って大切に、赤ちゃんの通り道を使って女の人の持っている赤ちゃんの元に近づけて送り込む」というような表現が語りやすいのではないかと思います。そして「赤ちゃんが生まれる可能性があるとても大切なことだから、簡単にしてはいけない」ということも教えたいのです。小学高学年~高校生に性の大切さを伝える方法二次性徴を迎えた子どもたちにとって、セックスについて学ぶことは特に大切なことです。現代の日本の子どもたちは「未婚であっても、学生であってもセックスしてもいい」という情報の中で成長します。ドラマやトーク番組、子どもたちの読む漫画や小説を見てもそのような情報があふれています。しかし、結婚するまで(生まれてくるいのちに対して責任を持つことができるまで)セックスしてはいけない、と語る大人は子どもたちの周りにはほとんどいません。もしそのような言葉を発しようものなら、古い人間とバカにされる始末です。確かにセックスはいのちを産みだすための行為だけではなく、最高の愛の表現ですし、本能的な喜びとして人間に与えられているものです。しかしセックスがいのちを産みだす可能性のある行為であるということを、子どもたちはあまりにもわかっていないのです。私は子どもたちに、赤ちゃんを育てるには収入が必要であることや、心の準備、環境を整える必要があることを具体的に説明したり、何よりもパートナーを愛し、子どもを愛することができるように愛の心を育てることが大切だと話します。そして子どもたちに「簡単にセックスしてもいい」という情報に出会ったら「違うよ。それは間違いだ。だって私たち(僕たち)は赤ちゃんを育てる準備ができていないじゃないか」という言葉を発信してほしいと私サイドに引き込むように話します。そして「古いといわれる“NO SEX”の生き方が、実は今一番新しくて、格好よくて、賢い生き方」と、セックスに対する考え方をリフレームすることで、子どもたちの思考や行動の変容を図りたいと考えています。「性」は本来神の祝福です。私たち大人がまず祝福される性のあり方を見直し、知恵を絞って子どもたちに正しく伝えていきたいと思うのです。【お悩み募集】自分のこと、友達のこと、わが子のこと……。一人で悩まずに永原さんに相談してみませんか?〒164-0001東京都中野区中野2-1-5 いのちのことば社 「いのこと編集部 お悩み相談」まで…
21世紀の教会のために 第4回 ケープタウン2010を通して考えたこと (2)
藤原淳賀 聖学院大学総合研究所教授 日本バプテスト連盟恵約宣教伝道所牧師 前回に引き続き、昨年十月の「ケープタウン2010(第三回ローザンヌ世界宣教会議)」出席を通して考えたことを分かち合いたい。教会の一致 毎朝行われた聖書の学びはエペソ書だった。教会の一致の問題が扱われた。WCC(世界教会協議会)代表として来られていた方は、開会式の挨拶で「ローザンヌとジュネーブ(WCCの本拠地)は遠くないし、遠くあるべきではない」と語った。また教義問題を扱う分科会で、WCCのオブザーバーとして来ている東方正教会の聖職者は、「議論を聞いていて自分はほとんど違和感がない。自分はなぜオブザーバーとしてここにいるのだろうかと思った。次回は参加者として来たい」と語った。私は直接会うことはなかったが、バチカンからの使者があったことも後で知った。「世は、教会のクレディビリティー(信頼性)を問うている」との重要な指摘が全体会議の中でなされた。本当に愛をもって互いを建て上げているのか、教会の一致があるのか、教会を信頼してよいのか、それが問われている。この問いかけに大きな賛同の声があった。これだけの規模で、これだけのバラエティーをもって行われるキリスト教の会議が世界で他にあるだろうか。(福音的な)教会が一つ声を世に対して発するということ。ローザンヌ会議が継続される必要を私はここにも見出すものである。アフリカの教会の成長ヨーロッパの教会の停滞・キリスト教人口の減少は深刻である。ヨーロッパの教会に将来はあるのかというセミナーも開かれていた。しばらく前からいわゆるキリスト教国、西洋諸国でのキリスト教人口は減りつつある。その一方で、アジア、南アメリカでの宣教が進んでいる。イスラム教徒への宣教は決して容易ではないが、確実に進んでいた。今回特に驚いたのは、アフリカの教会の成長である。アフリカの教会はこの百年の宣教で、宣教地の教会から、宣教師を送り出す教会へと成長していた。数の上でも教会が成長を遂げているが、それ以上に素晴らしいのは、優秀で知的で円熟しダイナミックなリーダーシップのあるアフリカ人の指導者が育っていることである。そのような方々に今回、何人も会った。確かにプロスパリティー・ゴスペル(クリスチャンになれば成功する)といった問題はアフリカでもあるようである。しかし、どこに出しても恥ずかしくないリーダーがアフリカに育っていた。翻って思うのは日本である。プロテスタント宣教開始から百五十余年。多くの人材とお金とエネルギーが投入されて来た。そしてその結果が、未だ一%のキリスト教人口である。もちろん宣教活動は神の主権と聖霊の働きの中で行われる。しかし世界規模で見て「おかしい」と感じるほどの停滞であると今回初めて感じた。リーダーの養成に関してはどうだろうか。日本の教会が、世界宣教の流れからずいぶん取り残されているように感じたのは私だけではないであろう。今回、出て行って福音を伝えることの大切さを痛感した。世界宣教といえば大仰な響きがあるかもしれない。しかし、できるところからできる人たちと一緒に、できる規模でやれればよいと思っている。その送り出すことが、ひいては日本の教会に祝福をもたらすことになるであろう。それは宣教が神の強烈な御心だからである。神はご自身と一つ思いになっている者を祝される。神の御思いの流れにわれわれの心と行動が沿っていなければならない。小さくてもいい。わずかでもいい。自分の規模で神の御心(み こころ)に沿っていなければならない。おわりにケープタウン2010は、その規模においてもプロフェッショナリズムにおいても質が大変高かった。しかし私にとっていちばん大きな祝福は、参加者のうちに自分と同じものを感じたという点であった。いわば「初めて会った、世界に散らばっている遠い親戚一同の大集会」という感を持った。「何か似ている。確かに自分と同じ一族だ」「やっぱりそういう経験をして、そういうふうに応答したのか。今まで会ったこともなかったけれど、そこで父の声を聞いて、父の御わざに参与しているのか」。そういう感覚である。何か響く同じものを感じた。この人たちとなら一緒にやっていけるんじゃないか、そういうものを感じた。神の民の一員として、共に二十一世紀の前半を走るべくバトンを託されていることを思わされた。…
98%クリスチャンの国から1%クリスチャンの国に来て 第2回 テクノロジーの国、日本
アマリア・ネクラエシュ 日本ルーテル教団新潟のぞみルーテル教会員 テクノロジーは面白いものです。便利ですし、生活を楽にします。しかし、それだけではありません。人生に″神聖さ〟、または″罪〟を持ち込む力があります。それはあなたが、テクノロジーを神の手の上に置くか、悪魔の手の上に置くかにかかっているのです。前回、私はクリスチャン家庭で育てられたのですが、恵みによる救いについて何も知らなかったことをお話しました。日本に来てから、「あるハプニング」があったのです。それによって恵みによる救いを知り、人生が変えられました。それは、″ハイテク〟なハプニングでした――。ルーマニアにいたとき、あるテレビ番組を見ました。クリスチャンの番組で、出演していたのは、以前から「この人おもしろいな」と思っていたジョイス(Joyce)・マイヤー(Meyer)という女性でした。私は、画面上に表示されていた彼女のホームページアドレスをメモしました。ただ当時、私を含めルーマニアに住む多くの人は、自宅でインターネットを使うことができませんでした。そこで私は、メモをどこかの本に挟んだまま忘れてしまいました。ところが、日本に持ってきていた数冊の中に、思いがけずその本があったのです!ある日、その本を開くとメモが出てきました。急いでコンピューターにアドレスを入力して(そのとき私は家でインターネットを使っていました。サスガ、日本!)ジョイス・マイヤーのビデオ・メッセージを開いて、見始めて……そして、引き込まれていきました!それからというもの……、毎日、神さまは彼女の教えを通して私の心を震わせました。毎日、毎日、神さまは、彼女のメッセージを用いて真理へ近づけるように私を導いてくれました。その真理は、「完璧でなくてもいい」ということでした。本当に必要なことは、ただ信じることでした。一人ぼっちで部屋の中にいた私は、コンピューターの前でガクリと膝をつき、われを忘れて泣きじゃくりました。そして……その瞬間に、イエスさまを人生の主として受け入れた祈りをして、私の内側のすべてが変わりました。その後、聖霊のバプテスマを受けました。そのことで、私の人生そのものも変わりました!神さまの栄光のために使われるならば、テクノロジーは素晴らしいものです。おまけに、日本は、テクノロジーの国です。日本人には、なんて素晴らしいチャンスがあるんでしょう!…