「ダビデの子」イエス・キリスト 最終回 「倒れたダビデの幕屋を」
三浦譲
日本長老教会横浜山手キリスト教会牧師、聖書宣教会聖書神学舎教師
その会議の中でペテロ、バルナバとパウロ、そしてヤコブが語りますが、最後のヤコブが語る中に「ダビデの幕屋」ということばが登場します。
「ダビデの幕屋」
神が異邦人をも救いへと招き入れていることを語る預言書として、ヤコブはアモス9章11―12節を引用します(使徒15・16―18)。
16この後、わたしは帰って来て、
倒れたダビデの幕屋を建て直す。
すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、
それを元どおりにする。
17それは、残った人々、すなわち、
わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、
主を求めるようになるためである。
18大昔からこれらのことを知らせておられる主が、
こう言われる。
近年、この「ダビデの幕屋」を「終末的な神殿」の意味に解する学者たちもいますが、やはり伝統的な理解にしたがって「ダビデ王国」と理解すべきでしょう。
「倒れたダビデの幕屋を建て直す」、「廃墟と化した幕屋を建て直し」というときの「建て直す」(「アノイコドメオー」というギリシヤ語)は、エレミヤ18章9節の「建て直す」と関連があります。エレミヤ書で「わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し……」と神が言われるとき、「建て直す」のは「一つの王国」でした。また、「それを元どおりにする」の「元どおりにする」(「アノルソオー」というギリシヤ語)は、Ⅱサムエル7章13節(「わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」)の「堅く立てる」(ギリシヤ語訳では「回復する」)と関連があります。やはり神がそこで堅く立てるのは「王国」でした。ヤコブはアモス9章11―12節を用いて、「ダビデの幕屋」、すなわちダビデ王国の回復に異邦人も参与するという神の約束について語ったのでした。
「ペテロ」と「パウロとバルナバ」と「ヤコブ」
この会議においてペテロ、パウロとバルナバ、ヤコブの四人の教会指導者たちが福音理解において一致していました。つまり、異邦人も含めて、人は律法ではなく信仰のみによって救われるという福音理解の一致を見ます。
ペテロとパウロは、それぞれに別の場所で語るときも、ダビデについて言及します。ペテロは詩篇16篇を用いて、「彼(ダビデ)は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです」(使徒2・30)と、新たなダビデ王国について語ります。パウロはピシデヤのアンテオケでⅡサムエル7章を背景にした説教の中で語ります。「ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで父祖たちの仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした」(使徒13・36―37)。やはり、新たなダビデ王国について語っていると見ることができるでしょう。
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ルカ24章で、「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する
……」(44節)というイエスのことばがありました。そのとおり、使徒の働きで語られるイエスに対するユダの裏切り(使徒1・16―20)、イエスの受難(使徒4・25―28)、そしてイエスの復活(使徒2・25―32、13・33―35)と昇天(使徒2・33―35)については、すでにダビデのかかわる詩篇において預言されていました。今回は、これに加えて、ダビデの王国にまさるイエスのさらにすぐれた王国(使徒15・15―18)が預言書において語られていたと見ることができます。
このシリーズでは新約聖書において旧約聖書がどのように用いられているのか、とりわけ旧約聖書の人物が新約聖書においていかに用いられているのかということを考えるために、特にダビデという人物に焦点を当ててきました。アブラハムは「ユダヤ人たちの父アブラハム」といった文脈で登場し、モーセは律法との関係で登場するとき、ダビデは常にイエス・キリストのことを指し示していました。ゆえに、ペテロは「彼(ダビデ)は預言者でした」(使徒2・30)と語るのでした。
1 例えば、R. Bauckham, “James and the Gentiles (Acts 15.13-21),” in History Literature, and Society in the Book of Acts, ed. B. Witherington, III (Cambridge: Cambridge University Press, 1996), 154-184.