「ダビデの子」イエス・キリスト 第12回 「わが神、わが神。どうしてわたしを……」

三浦譲
日本長老教会横浜山手キリスト教会牧師、聖書宣教会聖書神学舎教師

イエスがエルサレムに近づくときに、共観福音書のすべては、イエスが「ダビデの子」であることを記録します(マタイ20・30―31、マルコ10・47―48、ルカ18・38―39)。その後、ダビデとつながりの深い詩篇が引用されていきます。
イエスがエルサレムに入場するときには、詩篇118篇26節(「主の御名によって来る人に、祝福があるように」)が引用されます(マタイ21・9、マルコ11・9―10、ルカ19・38)。また、イエスは詩篇110篇1節(「主は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ』」)を引いて、ユダヤの指導者たちに一つの質問(「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう」)を投げかけ(マタイ22・45、マルコ12・37、ルカ20・44)、彼らとの論争に終止符を打ちます。

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さらに、ダビデにまつわる詩篇は、イエスの十字架の場面において引用されます。ルカの福音書では詩篇31篇5節(「私の霊を御手にゆだねます」)が出てきます(ルカ23・46)が、マタイの福音書とマルコの福音書では詩篇22篇1節(「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」)が登場します(マタイ27・46、マルコ15・34)。今回は、特にマルコ15章のイエスの十字架の場面と詩篇22篇との関係について考えます。

マルコの福音書15章34節における詩篇22篇1節

マルコ15章における詩篇22篇の引用は次の一箇所です。
マルコ15・33―34「33さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。34そして、三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」
マルコ15章においては詩篇22篇1節だけがクローズアップされがちですが、マルコ15章をもう少し注意深く読んでみましょう。

マルコの福音書15章全体における詩篇22篇

マルコ15章を特に詩篇22篇に照らして読んでみると、マルコ15章34節以外にも、マルコ15章における言葉が詩篇22篇における言葉と関連していることに気づきます。例えば、次のようなものです。
(1) マルコ15・24「それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。」
 詩篇22・18「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」
(2) マルコ15・29「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。』」
 詩篇22・7「私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。」
(3) マルコ15・31「また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。『他人は救ったが、自分は救えない。』」
 詩篇22・8「『主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。』」マルコ15章と詩篇22篇を比べると、対応している言葉や概念が右記以外にもまだ存在するかもしれません。つまりは、マルコ15章においては詩篇22篇1節のみが直接的に、もしくはピンポイント的に引用されているのではなく、詩篇22篇のもっと大きな文脈がマルコ15章の背景として存在するように思われるということです。

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これまで、十字架上でのイエス・キリストの受難の場面は、イザヤ書53章における「苦難のしもべ」のイメージのみで考えてきたということがあったかもしれません。確かに、ルカ22章37節(「あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」)には、イザヤ書53章12節の言葉が登場します。しかし、マルコの福音書におけるイエス・キリストの受難の場面にこれほどまでに詩篇22篇がちりばめられているとしたら、もう一つの姿をも忘れてはなりません。それは、詩篇に、そしてサムエル記に登場する「苦難を受ける義なる人(righteous sufferer)ダビデ」の姿です。このダビデの姿が予型論的(タイポロジカル)に、十字架上で苦難を受けるイエスの姿に重なります。十字架上で苦しまれるイエス・キリストの姿は、イザヤ書における「苦難のしもべ」の預言の成就でもあり、また同時に詩篇における「苦難を受ける義なる方」の預言の成就でもあったのです。