「ダビデの子」イエス・キリスト 第14回 「ダビデの口を通して」
三浦譲
日本長老教会横浜山手キリスト教会牧師、聖書宣教会聖書神学舎教師
初代教会に迫害がやって来ました。一度捕らえられたペテロとヨハネは釈放され、仲間のところへ帰って行きます(使徒3―4章)。そこで弟子たち皆が祈るのですが、その中で「あなたは……ダビデの口を通して、こう言われました」(4・25)と、詩篇2篇が登場します。
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自らの迫害に出合った弟子たちは、詩篇2篇を用いながらイエス・キリストに対する迫害を思い起こすのです。今回は、詩篇2篇とダビデの関係、そして詩篇2篇とイエス・キリストの関係について考えます。
詩篇2篇とダビデ
まず興味を引くのが、そもそも詩篇2篇には例えば「ダビデによる」といった表題が付いていないにもかかわらず、初代クリスチャンたちは詩篇2篇をダビデによるものと見たということです。確かに、紀元一世紀時代の初期ユダヤ文書も、かなりの詩篇をダビデの歌として理解します。ここでは詳しい議論は省きますが、当時、詩篇150篇全体がダビデの生涯という文脈で理解され、詩篇1篇と2篇が詩篇150篇全体のイントロダクションとして機能していたと思われます。そうだとすると、次の詩篇2篇1―2節はダビデの生涯においてどう理解されたらよいのでしょうか。
なぜ国々は騒ぎ立ち、
国民はむなしくつぶやくのか。
地の王たちは立ち構え、
治める者たちは相ともに集まり、
主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
(詩篇2・1―2。使徒4・25―26参照)
詩篇2篇がダビデの生涯全体にかかわることを述べているとするならば、カルヴァンが言うように、ダビデの生涯における敵がイスラエルの国の内側(サウルとその一族)と外側(ペリシテ他外国の国々)から来るものだったと理解できます。
詩篇2篇とイエス・キリスト
弟子たちの祈りの中で詩篇2篇が引用された(使徒4・25―26)後、彼らの理解(27節)がうかがえます。
事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、(使徒4・27)
その理解は、右記の詩篇2篇1―2節と次のように対応します。
a「国々」と「国民」(詩篇2・1)
b「王たち」と「治める者たち」(2節)
c「相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者
とに逆らう」(2節)
c’「いっしょに、あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らって」(使徒4・27)
b’「ヘロデ」と「ポンテオ・ピラト」(27節)
a’「異邦人」と「イスラエルの民」(27節)
詩篇における「国々」と「国民」(2・1)が、それぞれイエスの文脈における「異邦人」(27節)と「イスラエルの民」(27節)に対応します。そして、詩篇における「王たち」と「治める者たち」(2節)が、それぞれイエスの文脈におけるイスラエルの敵の代表としての「ヘロデ」(27節)と異邦人の敵の代表としての「ポンテオ・ピラト」(27節)に対応します。確かに、使徒の働きの著者ルカは、その第一巻で、イエスの裁判において「ヘロデとピラトは仲よくなった」(ルカ23・12)と述べます。
そうすると、あと一組の対応関係が明確になってきます。それが詩篇における「主と、主に油をそそがれた者(キリスト)」(2・2)と「あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエス」(27節)です。やはり、詩篇におけるダビデの苦しみが、やがてのイエス・キリストの苦しみを言い当てていました。
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ダビデ(25節)とイエス(27、30節)は、両者とも「しもべ」と呼ばれます。両者ともパイスというギリシャ語が使われます。ところが、弟子たちも自分たちのことを「しもべ」と言います(29節)が、そこはドゥーロスというギリシャ語です。このドゥーロスは弟子たちが祈りの最初(24節)に呼びかけた「主よ」(デスポテース)に対応します。このようなことも、ダビデとイエスの関係を際立たせることとなります。
キリストの御名のゆえに迫害に出合った弟子たちは、詩篇2篇に思いを馳せます。主の「しもべ」ダビデがやがての聖なる「しもべ」イエスの苦しみを歌った詩篇でした。その上で、やはり「しもべ」なるイエスの弟子たちは、迫害に会いながらも、ひるむことなく証しを続けるのでした。
1 J. Calvin, Commentary on the Book of Psalms, 3 vols. (Grand Rapids: Eerdmans, 1949); The Acts of the Apostles, 2 vols. (Edinburgh: Oliver and Boyd, 1965).