「ダビデの子」イエス・キリスト 第7回 「イエス・キリストの系図―ルカ版」
三浦譲
日本長老教会横浜山手キリスト教会牧師、聖書宣教会聖書神学舎教師
前回に続き、ルカの福音書の最初の数章における「ダビデの子」イエス・キリストの記事についてです。今回は、ルカ版イエス・キリストの系図について考えてみたいと思います。
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ルカの福音書におけるイエス・キリストの系図は3章に見られますが、マタイの福音書ではその最初(1章)に登場します。どちらの系図においても、もちろん、イエス・キリストがダビデの身から出ていることがわかるのですが、両方の系図にはいくつかの違いが見られます。
キリストの系図――マタイ版とルカ版の違い
マタイの描く系図は、アブラハムに始まり、イエス・キリストに至ります。そして、その系図の構成は明確です。「十四代ずつの三つのグループ」に分けられます。また、女性が登場します。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻と、異邦人と思われる女性やスキャンダラスな女性の名前が載っているという特異性が見られます。
それに比べ、ルカの描く系図は、まずはイエス・キリストに始まります。「イエスは……人々からヨセフの子と思われていた」という意味ありげな書き出しで始まり、最後はアブラハムではなく、アダムにまで至ります。しかし、ルカの系図はマタイのものほど、その構成は明確ではありません。しかも、女性の名前は登場しません。
しかし、二つの系図の違いはまだあります。今回、私が注目したい大きな違いは、マタイ版キリストの系図ではエルサレムの王の家系が載っているのに、ルカ版キリストの系図ではエルサレムの王の家系が載っていないという点なのです。
「ダビデの子ナタン」
マタイは、キリストの系図に、ソロモンからエコニヤのライン(マタイ1・6―12)を載せます。 しかし、ルカは、キリストの系図に、ナタンからネリを載せます(ルカ3・27―31)。つまりは、マタイはその系図にエルサレムの王の家系を載せているのですが、ルカはその家系を載せていないということになります。
マタイ版の系図に登場する「ソロモンからエコニヤ」のラインは、Ⅰ歴代誌3章5―16節に見られます(「エコヌヤ」。Ⅰ歴代3・16)。ルカは、おそらく、この流れも旧約聖書を通して知っていたことでしょう。なぜなら、歴代誌第一の系図に登場するゾロバベルとサラテル(「ゼルバベル」と「シェアルティエル」。Ⅰ歴代3・17―19)も、ルカの系図に出てくる(ルカ3・27)からです。ということは、ルカがキリストの系図をその福音書に載せるとき、あえてエルサレムの王の家系を避けたものを載せたということができるのではないかと思います。
とにかく、このことによって、マタイ版キリストの系図では、ダビデ自身の子としての「ダビデの子」はソロモンなのですが、ルカ版キリストの系図では「ダビデの子」はナタン(Ⅰ歴代3・5)となるのです。
「ダビデの町ベツレヘム」との関連
なぜ、ルカ版キリストの系図では、「ダビデの子」はナタンなのか。学者たちはその理由を考えます。「ルカは、ダビデ王にまつわるスキャンダラスな事件が付随するエルサレムの王の家系を避けているのではないか」等々。しかし、決定的ではありません。けれども、前回この誌面で取り上げましたが、どうも、ルカが「ダビデの町」を「ベツレヘム」と呼ぶこと(ルカ2・4、11)と無関係ではないのではないか。私はそのように思うのです。
「メシヤがベツレヘムから出てくる」という預言はミカ5章1―2節に見られますが、前回、私は、その預言は「エルサレムにおけるダビデ的な王とは対照的なイスラエルの支配者の登場」を預言しているのだと述べました。
旧約聖書において(Ⅱサムエル5・7、9、6・10ほか参照)も、外典において(Ⅰマカバイ1・33、2・31ほか)も、「ダビデの町」は「エルサレム」でした。宗教的・政治的な意味において「ダビデの町」はイスラエルの中心地「エルサレム」を指す言葉として機能していると思われるとき、ルカが「ベツレヘム」を「ダビデの町」と呼ぶのは、そこにミカ5章1―2節の預言が暗示されているからなのではないかと思います。
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ルカの福音書におけるキリストの家系ではエルサレムの王の家系が避けられていることと、ルカの福音書において「ダビデの町」が「ベツレヘム」と言われていることが合致します。「イスラエルを破滅へと導いたエルサレムの王たちとは対照的なやがての王。その王がベツレヘムから出てきた。ミカが預言した通り」。これはルカにおいては一貫したことではなかったのかと思います。