「二人」を生きる関係 第5回 両親からの自立
近藤由美
人が、物心ついてから成人するまでになすべき大切なことの一つは、「父と母を敬う」(出エジプト二〇・一二)ことであり、「主にあって両親に従う」(エペソ六・一)ことです。
神を信じる信仰に導かれたとしても、両親を敬うことを、生き方の中心に据えられず、反抗ばかりして両親の言葉(命令や指示)に従う生活が身につかなかった人の「愛」は、いささか眉唾ものだと私は思っています。
思春期には、「なぜ、うちでは○○さんの家のように、△△が許されないのか」と、親の許可がおりない理由を理解できず、不満だけがつのります。まして子供の言い分に上手に耳を傾けられない親に至っては、敬う気持ちにとうていなれない、といったことだってあるでしょう。客観的に見れば、子供の言い分も一理あると思えることもありえます。しかし親が親であるという理由で、つまり神が信任して「私」の養育を委ねたのが両親であり、親となることを引き受けて養育の責任を負ってくれたのが両親なのですから、養育されている期間は、罪を犯すことを命じられること以外は、親の命に従わなければならないのです。
親を敬うことを軽視できない理由は、それが十戒のうちの一つで(出エジプト二〇・一二)、しかもイエス・キリストもそれを是認しておられるから当然なのですが、それがやがて対人関係の土台を結果的には築いてしまうことになるからなのです。若い時には親と他者は別だと思い、そのつながりに気づけません。親との関係は悪かったが、他者との関係は良好だということは、実際にはありえないのです。人が親に対してとり続けてきた心の姿勢(やがてそれが無意識の習慣や反応となっているもの)は、対人関係にそっくりそのまま継承されるのです。
両親に愛されていることを疑ったことのない人にとっては、親に従うことは、それほど難しいものではないでしょう。しかし親の言動に対して不信感を払拭できず、親から自分の存在を肯定されていないと感じる人にとって、反抗は親の愛を確かめる手段となり、敬う思いをもって従うことは容易ではありません。
結婚時には、まず両親から離れること、つまり精神的に乳離れすることが正しい順序であることが聖書には記されています(創世二・二四)。しかし現代は、未成熟で、実際には両親に依存しなければ生きていけない人が結婚しようとするので、問題が生じてくるのです。
両親を敬う生き方を積み重ねて大人になった人が、自分を産み育ててくれた両親に心からの感謝をする時に初めて、「父母を離れる」ことは可能になります。物理的には離れて暮らし、経済的に自立していたとしても、精神的には親に感謝しようとしない反抗期を続けているなら、親離れをしているとは言えず、切実に願っている親からの自由も決して手に入れられないのです。まして親に甘えられる子供の身分を手放せない(手放したくない)とすれば、結婚を考えるのは時期尚早と言えるでしょう。
結婚は、親離れをした者が、スタートさせるものであるということです。「親離れ」をするため(したいため)に結婚するのではないのです。親離れのできていない二人が向き合おうとすると、各々が親離れできないゆえに引きずっている親が常に二人の間に目に見えない形で介在して、二人が向き合うことを阻んでしまいます。伴侶に惜しみなく与え、また伴侶から受けたいという望みは、親から自由になっていないと出てはこないのかもしれません。そう望んでいるつもりが、伴侶から受けるものはセカンド・ベストであって親にはかなわないと感じるようでは、結婚という関係は成立しないでしょう。親の代役となるのが伴侶ではないのです。親とは異なる新しい関係を築くパートナーが結婚相手なのです。
両親が、自分の養育のために用意してくれた枠を、親への感謝と共に解くことができるでしょう。成長段階に必要不可欠であった支えは、成長した者からは、はずすことができるのです。結婚する二人は、二人の納得のいく、二人のためのルールを話し合いながら設けていくのです。例えば、食事の時には静かに食べるようにとしつけられて話しながら食事をしたことのない人と、家族がにぎやかに会話を楽しんで食事をして育った人が結婚するなら、二人に、新たな基準と合意(そのための話し合い)が必要になるでしょう。
結婚するまでに成長したなら、自分らしい意思と判断で行動して生きていいのです。親に感謝できた人は、巣立っていくことに後ろめたさを覚えることはありません。かえって両親の温かなまなざしとエールが自分の背中に向けられていることを知るはずです。親のコピーとして生きる必要は全くなく、それは神も望まれるところではないと私は考えます。
「もはやふたりではなく、ひとりなのである」という素晴らしい関係を始めるために、しっかりと両親に向き合い、感謝をすることが、独身最後の大切な務めです。