「原理主義」と「福音主義」 第2回 マス・コミによる”恐るべきイメージ化”の現実
宇田 進
東京基督教大学名誉教授 元ウェストミンスター神学校客員教授
日常手にする≪新聞≫に対する購読者の信用は25パーセントにすぎない、という分析がある(西部邁『批評する精神』1978)。
かつて、『アメリカにおける民主主義』で知られるアレクシス・ド・トクヴィルは、≪多数派の専制≫を激しく批判したことで知られている。
われわれを取り巻く≪マス・コミ≫について考える時、日頃≪言論の自由≫ということを空気のように思っているけれども、それによって主導される世論の支配や、時に確立されたも同然の状態がいわば創作されているといった問題を感じることがある。また、人々の意見を同一化させ、凡庸化させることによって真の自由を奪うという恐ろしい危険の可能性にも、十分注意しなければならない。
日本の主要な新聞において、カトリックの法王の目立った動静を小さなコラムで報ずる以外、キリスト教のこと、特にプロテスタント教会のことは、死亡・葬儀欄に一部の関係者の名が登場する以外、まったくと言ってもいいくらい記事になることはない。
ところが、近年ちょっとした≪異変≫が起こっている。それは、前号でふれたように、「キリスト教原理主義」とか「福音派」という言葉が、全国紙の紙面に登場するようになったことである。一体そこでは、「キリスト教原理主義」や「福音派」の≪何≫が、そして≪どのように≫に描かれているのだろうか。
特に現代は≪ポスト・モダン≫の落とし子である「分衆の時代」(博報堂生活総合研究所篇『〈分衆〉の誕生』1985)に突入し、そこでは≪イメージ≫というものが巨大な力をもつ、まさに「イメージの時代」である。時としてイメージが恐るべき≪魔語≫となる可能性が十分にあることを、心に留めておかなければならない。
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まず、「朝日新聞」に登場した二つの記事に注目したい。最初のものは、2002年12月26日号の「世界発2002」シリーズの一つで、「宗教放送(全米家族ラジオ─ARE)で公共ラジオが聞こえない─疑惑の電波乗っ取り」というアメリカのことを取り上げた記事である。
この記事の焦点は、「全米家族ラジオ」が「保守的キリスト教」の活動であるという事実に集められている。具体的には「公共ラジオ」(NPR)の≪リベラル色≫を嫌い、メディアの暴力や性描写の規制、家族の価値の強調、人工中絶反対など、伝統的なキリスト教道徳・倫理の強調。「神のためだ」となんでもごり押しする恐ろしい戦闘的姿勢。様々な考え方を認める度量を失わせる運動。そして最終的にはこのような宗教右派がブッシュ政権の支持基盤であるという想定である。どの一つをとっても、すべてネガティブなイメージを与える書き方ばかりである!
二つ目は、昨年の6月1日号の「アメリカ政治と宗教」というタイトルの記事である。これは蓮見博昭氏(恵泉女学園大学)の大変情報豊かな『宗教に揺れるアメリカ』(2002)と関連させたものである。
これも、ご多聞にもれず、焦点はブッシュ政権の政治観と「ネオ・コン(新保守主義──強いアメリカを目指す政治家・知識人から成る共和党系のイデオロギー集団)」、そしてその支持基盤とされている「キリスト教右派」(バプテスト派のジェリー・ファルウェルの「道徳的多数派」などを含む非エリート、タカ派的、好戦的なアメリカ原理主義・福音派──2000年の大統領選でブッシュ氏の全得票数の32パーセントを占めた)が批判に置かれている。
その政治観・価値観は、おおよそ次のものとされている。米国を地上で最も偉大な国とみなし、神の加護を受ける特別な使命を託された選ばれた国とする考え方、世界を敵か味方かに二分する世界観、そして米国の価値観を絶対とし、他国に縛られることを嫌う単独行動主義と十字軍主義であると批判されている。
一つ指摘しておきたいことは、蓮見氏によるとするアメリカ教会の分類図は、必ずしも今日の実態を正確に描写しているものとは言えない。たとえば「主流派」に分類されているメソジスト、聖公会、ルーテル派、長老派の中に、実際には福音的な信仰を持っているかなりの信徒が依然存在しており、また≪福音主義の復活≫(Evangelical renewal)を進めている諸運動組織も活動中である。ロナルド・ナッシュ編『主流派諸教会における福音主義の復活』(1987)は、それを裏付けている当事者たちによる生きた証言集の一つでる。この類の文書は、残念ながら日本のエリートたちの調査や文書資料からはまったく見落とされている!
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「読売新聞」も例外ではない。今年の2月18日号で≪宗教を考える≫シリーズの中に登場した「教えを相対化する勇気──原理主義の克服」という記事をみてみよう。これは、昨年、同志社大学神学部にイスラム学者が三人加わったのを機に、同科の研究者たちを中心に設立された「一神教学際研究センター」をめぐるものである。
センター長の森孝一氏による設立の目的と中心課題が次のように紹介されている。
十字軍や植民地支配などを巡り、欧米、中東の一神教の国々には歴史のしがらみがある。日本はそのいずれからも外にあり、三つの一神教(キリスト教・ユダヤ教・イスラム教)の「仲介者」として、役割を果たせないか。
つまり、ただ、「多神教=平和的・共存的」「一神教=戦闘的・独善的」という図式を描いて、「多神教こそが一神教文明に対する解決策」と安易に発想することは避けるという。一神教世界の人々に一神教はダメだからやめなさいというのは、「あなたのお母さんはダメだから替えなさい」というのと同じ。そう言わずに対話の場を提供し、彼らの伝統の中から平和共存の道を探求したいということである。
その際に、避けられないのが「原理主義」の問題とその克服であるとみている。神を絶対的に信頼し、人間がつくったものとしての「宗教」を含め、神以外のすべての事柄の相対化が必須とみる。
原理主義者の特徴は、真理はすでに分かっていて、聖典にすべて書かれていると思い込むことだという。そうならないためには、自分がこれまでに受け入れてきた教えを自分で一度相対化し、真理は簡単に得られないと思い直す勇気が求められる。また信仰の異なる他者との出会いの中で、社会がいかに「礼節」を育てるかも重要となるだろう、ということである。
克服の一つの要とも言えるものとして、大貫隆氏(東京大学)が『イエスという経験』(2003)において表明したイエス論も重視されている。それによると、「イエスは『神は言われる』という言い方はしなかった。神の権威を持ち出さず、『私は言う』と自分の名前と責任で語った」と指摘し、≪神の名の下に≫戦いを仕掛けるという生き方に疑問を投げかけた、ということである。
以上の主張の中からは、キリスト教を一般の宗教史のうちに取り込み、≪歴史とともなる≫キリスト教の弁証を試みたかのエルンスト・トレルチの歴史的相対主義のエコーや、ジョン・ヒックの宗教多元主義のエコーが響いてくるように思われる(拙著『総説現代福音主義神学』2002参照)。また、森氏はファンダメンタリズムの群を「セクト的」(異端宗派!)と規定している事実も付記しておきたい(M・エリクソン『キリスト教神学』第2巻、2004所収の筆者による「監修者あとがき」参照)。
「今日、自分は原理主義の反対者だと言えば、社会において広範な賛助を得るだろう」というフートの言葉(『原理主義』42頁)が、ふと頭をかすめる!