「原理主義」と「福音主義」 第3回 エバンジェリカルをめぐって─アメリカ教会と日本教会(後編)
宇田 進
東京基督教大学名誉教授 元ウェストミンスター神学校客員教授
*
一方、日本の教会事情はどうなのだろうか? 詳細な分析・調査は今後の課題であるが、ファンダメンタリズム系や福音派系の諸教会の由来とその歴史的展開についての通史は、中村敏氏による『日本における福音派の歴史─もう一つの日本キリスト教史』(2000)によって明らかにされている。また、たとえば、日本福音同盟(JEA)による『はばたく日本の福音派』(1978)や『地に住み、誠実を』(2003)をはじめ、1974年(第二次大戦後の最大規模のキリスト教会議と評された「ローザンヌ世界伝道会議」が開かれた年。公表された「ローザンヌ誓約」は、今日の世界の福音派の基本姿勢を証ししている重要文書)より最近までに開かれた4回の「日本伝道会議」は、日本の福音派の成長とその軌跡の重要部分を立証している。
ところで、日本の教会と宣教の現在と将来を考える際に、より慎重な検討を求められる一つの問題は、いわゆるメイン・ライン教会(日本基督教団など)のファンダメンタリズムや福音派に対する見方ではないかと思う。
ここで二つの文書に目をとめたい。一つは“批判”と“拒絶”を表明している栗林輝夫氏(関西学院大学)の『ブッシュの「神」と「神の国」アメリカ』(2003)と、他は“積極的な見方“と“一定の評価“を表明している古屋安雄氏の『日本のキリスト教』(2003)である。
前者の主張の中心点はと言うと、アメリカの政治は今や「一握りのプロテスタント狂信主義者の手に握られてしまった」。「ブッシュ政権を理解するためには、福音派の主だった教義を知っていなければならない」。その神学は「粗雑で、危険な、反知性的な国家護持の神学」である、ということである。
具体的には、聖書を誤りのない啓示の書とする、長くピューリタンたちによって保持されてきた神の選びと主権を強調するカルヴァン主義神学、神の国の“今”と“キリストの法”という視点に立つ文化・社会・政治のキリスト教的再建運動(同窓の友人たちの名も登場する!)、進化論に反対する創造主義、反イスラム十字軍主義、親イスラエル・ハルマゲドンの世界戦争・キリストの再臨を強調しつつ黙示録的メシア主義を特色とするディスペンセーション主義(ハル・リンゼイやティム・ラヘイなど)、分離主義、ビリー・グラハムの影響などが、批判的かつ拒否的にふれられている。
ブッシュ政権の“在り方”については大いに論ずべきであるが、ことファンダメンタリズム・福音派に関する著者の見方は、従来から日本のメイン・ラインの教会の中に広く流通してきたものの反復にほかならない。結局、忌避・拒絶以外の何物でもない。
以上のようないわば“定説”とも言えるネガティブな見解とは対照的な“稀なる見解”が最近登場している。それは、一定の理解と評価をともなった古屋安雄氏(聖学院大学)の見解である。
古屋氏は前掲書の中で、一章を「日本の福音派」にあてている。種々問題を論じながらも福音派の成長に注目し、「日本においても福音派に期待するのである。日本基督教団をはじめとするいわゆる主流派の諸教会がいつまでも混迷と混乱のなかにあるならば、福音派の諸教会がそれこそ〈主流〉となる日がやってくるかもしれない」と“オープンで前向きな見解”を披瀝している。
かつてウィリアム・ホーダーンは、エバンジェリカルはリベラルなものを一生懸命学ぼうとするが、その逆はほとんどみられないと指摘したことがある! また、プリンストン大学の社会学者ロバート・ウスナウは「リベラル派と福音派の両者とも、互いに相手の最も悪い面ばかりを前面に押し出し、それぞれの“よい部分”をまったく見ようとしない」とも批判している(『アメリカの魂のための闘い─福音派・リベラル派・世俗主義』(1989)。日本のキリスト教界はまさにその典型である!