『ありがとう純子』その後…… [後半]
●手術
守くんが八歳の時、勝治さんの心臓の弁に障害があることが分かった。手術を受けるべきかどうか、勝治さんは悩み、無心に祈った。そして神に促されるように手術を決心する。万一の場合に備え、勝治さんは身辺を整理した。工場を一つ売却し、借入金を全部返済。従業員たちに指示を与え、入院までに準備万端整えた。どこかに自分が死ぬかもしれないという思いがあったのだろう。入院の時には、守くんの頭をなでながら、「守。お前は男の子なんだから、お父さんがいなくなったらお母さんを守るんだよ」とことばをかけた。
手術は無事に成功し、勝治さんは仕事に復帰した。
●守くん、東京へ
守くんが高校生になると、親子は将来勝治さんの会社を継ぐか否かを話し合った。守くんは「お父さんのようにみんなから尊敬される社長には僕はなれないと思う」と言った。確かに五十歳以上離れた親子では、後を継ぐために教えてもらえる期間があまりにも短い。勝治さんも無理に後を継がせようとはしなかった。そうと決まると、八重子さんは守くんに東京の大学への進学を勧めた。親が元気な間に離れて暮らし、分からないことがあれば電話で聞く。何かあっても、行こうと思えばいつでも行ける。そんな状態が大事だと思ったのである。勝治さんも賛成だった。
大学受験は失敗もし、浪人生活も体験したが、守くんの東京生活が始まった。離れて暮らす両親に守くんはこまめに手紙を書き、電話で近況を知らせた。再び教会にも通うようになった。
●再び病魔が
守くんが東京に出るのと前後して、勝治さんは会社を引退。旅行、コンサート、庭園めぐり、ドライブと、八重子さんとの時間を心ゆくまで楽しむようになった。しかし五年後、そんな勝治さんを再び病魔が襲う。間質性肺炎。仕事で塗料の霧を吸った結果、肺に付着した粉塵が原因であった。医者はもう良くなることはないと言い、すぐに入院が決まった。
入院生活が始まると、八重子さんは毎日病室へ通った。朝七時半に家を出、夜の九時まで病室でともに過ごす。家には寝に帰るだけだったが、帰ると守くんから一日も欠かさず励ましの電話がかかってくる。
病室での勝治さんは、いつも毅然としていた。八重子さんと話をし、本を読む。新聞を読み、毎日の株価の統計までとる。寝ていることはほとんどなかった。見舞客も「元気な姿に安心しました」「励ますつもりで来たのに、こちらが励まされました」と言って帰っていく。だれもが重病人とは思わなかったという。
しかし病気は確実に進行していた。五か月の入院の後、一度は退院したものの、三か月後に再入院。そして二度と退院することはなかった。
●「今なら慰めてやれる」
ある日、勝治さんは見舞いに来た牧師と、自分の召天式の打ち合わせを始めた。目を輝かせて淡々と話すその様子を、八重子さんは呆然と聞いていた。牧師が帰ると、八重子さんは急に悲しくなり、「お父さん、死なないでね」と泣いた。すると勝治さんはその涙をぬぐいながら、こう言った。「お母さん、僕が死んでも泣かないでほしい。死んでから泣かれても、慰めてやることができないからね。今なら、こうして慰めてやれるから、今いっぱい泣きなさい。そのかわり死んでからは泣かないで、しっかり生きてほしい」
二〇〇六年三月、勝治さんは天国へ旅立った。かねてからの願いどおり、八重子さんと守くんに手を握られての召天であった。
召天式では、牧師や元部下が勝治さんとの思い出を語った。八重子さんも夫への感謝を述べた。最後のあいさつは守くんだった。父への思いを立派に語るその姿は、二十五歳の青年の挨拶としてはすばらしい、まさに親としての勝治さんの歩みの集大成だった。