『聖書を読んだサムライたち』
出版記念講演会 龍馬を斬った男の“その後”1
守部喜雅
龍馬を斬った男の“その後”講師
NHK大河ドラマの「龍馬伝」が盛り上がるなか、龍馬を中心とした幕末・維新の歴史に脚光が集まっています。昨年末に出版された『聖書を読んだサムライたち』も好評で、多くの方々に用いて頂いています。特集では3月に行われた著者講演会の内容を抜粋。坂本龍馬を斬った男が、後にクリスチャンとなった話を中心にお届けします。昨年、プロテスタント宣教百五十周年ということで、本書発行の半年前に一冊の本を書きました。四十七都道府県ごとの宣教事始めをまとめた「日本宣教の夜明け」(いのちのことば社・マナブックス)がそれです。そのとき改めて思ったのは、開国と同時にクリスチャンになったのは、武士が多かったということ。幕末・維新期には日本語の聖書がなく、漢訳聖書が用いられたため、教養のあった武士層に浸透していったのですね。宣教がスタートした百五十年前を振り返ってみたとき、いろいろな出来事のなかに、神様の導きというものがあった。『聖書を読んだサムライたち』でも、その不思議さを感じられると思います。今回の講演では、本書の登場人物のなかから、宣教師のフルベッキと、坂本龍馬を斬った男についてお話ししましょう。
明治近代国家に貢献した宣教師フルベッキ
最初に、一枚の不思議な写真から見てみたい。通称「謎のフルベッキ写真」と言われている写真です。幕末に、日本最初の写真館を開いた上野彦馬という写真家がいました。この写真は、彼が長崎のスタジオで撮ったと言われています。撮影時期は不明で、一八六五年頃とも、一八六九年とも言われています。中央にフルベッキという宣教師とその子どもがいて、二人を取り囲むように武士が四十人ほどいます。ここに、西郷隆盛や坂本龍馬、勝海舟など幕末・維新の有名人が勢揃いしているという説があって、「謎」と呼ばれています。
彼は、日本に聖書を伝えるため、一八五九年十一月に長崎港に上陸したアメリカ国籍のオランダ人宣教師です。しかし、彼が来日したときは、日本人への伝道は禁止されていました。そして、日本で生まれた女の子が、生後二週間で亡くなります。この時期に書かれた彼の書簡には、苦悩が溢れています。
その後、フルベッキは、佐賀藩の英語伝習所「致遠館」で英語と聖書を教えていました。生徒の一人、大隈重信は非常に成績が良かったそうです。彼は、クリスチャンにはなりませんでしたが、終生フルベッキを慕い、聖書の教えを大切にしました。
フルベッキはしだいに明治政府の中心人物たちとの人脈が開かれていきます。最初に教えた致遠館には、佐賀の藩士だけでなく、他藩からも学びにきていました。長崎は、西洋文明を学ぶ中心地でしたからね。
明治時代に入ると、政府はフルベッキをお雇い外国人として迎え、結局彼は十年以上日本政府のために働きました。明治二年には、日本が今後とるべき外交上のアドバイスを大隈宛に提出しています。これは、明治四年に出発した欧米使節団を準備するのに大いに役立ちました。たとえば、使節団の代表の肩書は「全権大使」にすることが重要であるといったことが書かれています。ある意味で、日本の外交の基礎を作ったと言えるかもしれません。また、彼は東京大学の前身となる学校の教頭となり、実質的にその土台作りを行いました。しかし、そのような働きは宣教師としての本来の奉仕ではないため、彼を送り出した宣教団体からは次第に距離をとるようになり、その結果、アメリカ国籍も失ってしまいます。一方で、明治政府は彼の功績を認め永住権を与えました。そのとき彼は「私の国籍は天にあります」と言ったのが印象的でしたね。