いじめ 大人と子どもと教会と いじめ、その心を見つめて

森 真弓
スクール・カウンセラー

 「いじめは見えにくい」と言われています。マスコミは学校の対応に問題があると言い立てますが、もちろんそれだけではありません。子どもたちの内なるところに、自分では認めがたい何らかの心理が隠されているからなのでしょう。

 週一日勤務のスクール・カウンセラーとして学校全体を把握することは難しいですし、独自の調査データを持っているわけでもありません。ここでは、クリスチャンであり心理臨床家である私の心にある思いを分かち合いたいと思います。

 

一、「いじめ」って何?
 健康な攻撃性と不健康な攻撃性

 学校現場で私が体感している「いじめ」は、自己主張のできないおとなしい子どもや、アトピー性皮膚炎や自閉症など何らかのハンディキャップを持っている子がターゲットになりやすいということです。

 文部科学省の公式のいじめの定義に加え、深谷和子氏の“健康性の視点”によるいじめの分類とその理解はとても役立ちます。[1]けんかや意地悪、[2]「いじめ」、[3]いじめ非行の三つに整理されています。

 [1]は健康な攻撃性で、どの社会にも、いつの時代にもあり、これを排除しようとするとゆがんだエネルギーになってしまいます。[3]はカツアゲや暴力を含み、非行・犯罪としての対応をとるべきものです。この対応に遅延があってはならないと思います。日本に特徴的なのは[2]の不健康な攻撃性で、モノ隠しや悪質な悪口、仲間はずれや無視などが長期に持続する「いじめ」だと言います。

二、いじめる子どもの心理
「甘え」の視点から

 土居健郎氏は、「いじめ」の根本は「妬み」であると言っています。いじめる子どもは、甘えたい思いを隠して妬みにも気がつかないでいるのです。甘えの欲求は人間のもっとも根源的な欲求であると言います。乳幼児の母親に向けられる注意力のすさまじさを思い出してみてください。その心はただひとりの対象に向かって熱く、その人から愛されることを切望しています。無条件に受け入れられることを必要としています。しかし、その願いや必要が満たされないと感じたとき、甘えの欲求は容易に妬みに変わるでしょうし、自ら肯定感を創り出すために、自分が優位に立てる弱者を探すでしょう。

 戦後、がむしゃらに自立しようとしてきた大人たちが子どもの甘えを変質させてしまい、平等主義が妬みを正当化してしまっている現代にあって、土居氏の「甘え」理論と深谷氏の「いじめ」の見解とはどこかでつながっているように思えます。土居氏は妬みを緩和するのが「甘え」だと言います。確かに、子どもが心底だれかに甘えられたら、激しい妬みは緩和されるでしょう。

三、相談室にて
「つなぐ」こと

 以上のような心理を理解しつつ、私が相談室で心がけていることは「つなぐ」ことです。

 母子一体感の希求に疲れ果て、妬みがゆがんだ形で表出されるとはいえ、人が関わりの中に生まれ生かされている存在である以上、だれかとつながりたいという心を大切にすることを教えます。教えていかないと、語り続けていかないと、子どもたちの心は乾いてしまいます。人と人とのつながりや心を信じなくなってしまいます〔認知面・教育的側面〕。

 いじめは「集団の病」だとも言われています。自分を振り返ってみても、昔の子ども集団にはリーダーがいてルールがあり、「われわれ意識」でつながれていたと思います。十分な三間(仲間・時間・空間)がありました。私は相談室を回復の空間と位置づけ、学年の違う生徒同士をつなぎ(「先生は今話せないから○○君、△△君の話相手になって」など)、いじめ・いじめられている双方の中に仲裁者を立てて話し合わせることもします〔対人関係スキル訓練〕。

 

四、先生を含めた大人たちへ
ともに痛む心、声を上げる勇気

 いじめをなくすことではなく、いじめが起きた時にどう対処するかが先生の教育力だと言われます。いじめに対処するには、“感性”も大事だとしきりに思います。事実が明白である場合は別ですが、複雑な心理がからんでくるケースは避けてしまう傾向が先生にあるように思います。痛む者とともに痛む感性というのは、自分自身の隠れている部分につながろうとするときに生じるものなのかもしれません。自分の中の攻撃性や甘え欲求にも開かれていたいと思います。

 人とつながれない心に規範意識は育ちません。多くの方が指摘するように、いじめにおける傍観者だけでなく、正を正、悪を悪と言えない大人が増えているように感じます。最近、テレビ番組の中である評論家が、日本人の倫理の低さについてコメントした時、海外の記事を紹介して「日本のクリスチャンにもっと頑張ってほしい」と言っていました。愛や正義や真実について、それぞれが置かれた立場で必死になって声を上げる大人でありたいと思います。大人が何を大切にして生きているかが、子どもの生き方になっていくのですから。


【文献】
・土居健郎『聖書と「甘え」』(PHP出版、一九九七年)
・土居健郎・齋藤孝『「甘え」と日本人』(朝日出版社、二〇〇四年)
・深谷和子『「いじめ世界」のこどもたち』(金子書房、一九九六年)