いよいよ来日!ウォルター・ワンゲリン 翻訳を通して出会ったワンゲリン―― その魅力

内山 薫
翻訳者

 恥ずかしい話だが、『十字架の道をたどる40の黙想』の原書(Reliving the Passion)を手渡されるまでウォルター・ワンゲリンという人物の存在を知らなかった。『小説「聖書」』という本の存在は知っていたが、それ以上のこと、著者が誰で、どこから出版されているかなどは何も知らなかった。ただ、渡された本の副題に「イエスの苦難の死と復活を黙想する」とあって、信仰生活の中で祈りや黙想の大切さを感じるようになっていた私の興味がそそられたことは、仕事としての義務感だけでなく個人的な関心をもって本書に臨めたという点で幸いであった。

 そうして読み始めた序文。「へぇ、著者は牧師の息子なのか」「感受性の強い子どもだったんだな」などと思いながら文字をたどっていると、新しいパラグラフが突然、「歯」という一語で始まる。唐突な始まりに一瞬戸惑う、が、次の瞬間には自分が十字架の現場に引きずり込まれている。目の前にユダの歯が、ポンテオ・ピラトの歯が、群衆の歯が、そう、薄暗がりの中にそれだけ白く浮き立って見えている。そして読み進むうちに、いつの間にか私自身がワンゲリン少年となり、イエス様と一緒に十字架にかかっている。十字架の上から人々を見下ろしている。この時点で、私はハッとして物語から現実に戻る。夢が強烈すぎて目が覚めてしまう時のような感覚だ。

 十字架の場面を思い描くことはこれまでもあった。しかしそれはいつも群衆の一人としてイエス様を見上げるという想像にとどまっていた。だから、十字架上から、イエス様の視点から群衆を見下ろすという新しい体験(見えてくる情景が全く違うのだ!)に驚いた。そしてそのような視点に読者を導く著者の想像力とその表現力に感嘆してしまった。このような驚きはその後随所で私を待っていた。

 彼の描く世界はとても具体的だ。感覚に訴えかけてくる。そこにあるものがどんな色をし、形をしているのか。それがどんな手触りか。どんな音が聞こえているのか。どんな風が吹いているのか。生暖かいのか、涼しいのか。その風に乗ってどんな香りが運ばれてくるのか。おそらく自分一人の想像力ではたどりつけないところまでワンゲリンは運んでくれる。イエス様のあばら骨の数さえかぞえられるほどの場所までである。

 しかしいざ翻訳、となると、手こずるのは意外にも小さなことであったりする。例えば、本書では聖書中の人物が一人称として何人か登場してくる。律法学者やマグダラのマリヤ、ペテロなどである。英語では一人称はすべて「I」で表現されるが、これを日本語に置き換えるとなると、同じ一人称でも「わたし」「わたくし」「ぼく」「おれ」「わし」……と言い方は様々で、さて、マグダラのマリヤは自分のことを何と呼ぶだろう、というところから始めなくてはならない。ごく普通に「わたし」? それとももっとあばずれて「あたい」? いや、これは行き過ぎだろう……。こうして思い浮かぶパターンをシュミレーションしてみる。「わたし」というのと「あたい」というのでは、あとの言い回しがすべて変わってくるからだ。

 最終的には原文の醸し出す雰囲気にどうすれば最も近づけるかで判断することになるのだが、訳語としてどれを当てるかで、その人物の印象がある程度決定されてしまうから慎重になる。ましてこれらの登場人物に対しては大抵の読者がすでに自分なりのイメージを作り上げているだろうから、そのあたりも考慮しなければならない。

 あとで振り返れば、結局はどの人物も「私」で話をすることになっていたが、「I」というこの簡単な語にこれほど神経を使うことになろうとは思っていなかった。原文のイメージをどれほど忠実に再現できるのか――翻訳が答えのない作業であることをつくづくと思わされる。

 この本との出会いで私自身ファンの一人になってしまったが、ワンゲリンの魅力はその想像力や情景・人物の表現の豊かさにとどまらない。彼は読者を聖書の世界に導き入れながら、物語を鏡のように私たちに向けて、そこに読者自身の心を映し出して見せる。時には人間の、特にクリスチャンの陥りがちな偽善や欺瞞をもあばき出す。しかし傲慢さを戒めても、弱さを糾弾しない。人間が徹底的に弱い存在であること、その究極に受け皿のようにイエスが立っておられること、そして人間が正直に自己を見つめる場所が神との出会いの場であることを繰り返し示してみせる。どんなに想像力で遠く羽ばたいても聖書の本質からはずれない。弱く醜い人間の現実から目をそらさない。だからそこに何かしら慰めがあり、安心感がある。私がワンゲリンに感じる魅力の一つである。


内山 薫(うちやま・かおる)
 翻訳者

 日本バプテスト宣教団 池田キリスト教会会員 訳書にウォルター・ワンゲリンの著作として『十字架の道をたどる40の黙想』『主の来臨を待ち望む36の黙想』(仮題 今秋出版予定)(いずれもいのちのことば社刊)、またその他に『信仰の友への手紙』(同)などがある。昨年一年間の本誌表紙のイラスト、エッセイを担当。